とあるツイ廃のブログ

ツイ廃が140文字で抑えきれないなにかをただかきつくるもの

新日本海フェリー乗船記と新潟

さて、前回「小樽から佐渡に行く」なんて書いた気がしますが、定期点検だかなんだかで行けなかったということで、苫小牧東港から秋田経由の新潟行きに変更しました。小樽からだったらさぞや積丹ブルーの海が綺麗であったことでしょうけれども、今回は仕方ないことです。

さて、苫小牧東港は西港とは違い、ハスカップの名産地・厚真町にあります。先日の胆振地方の地震で被災したところで、南千歳駅からのバスの道中も道路が被害を受けたのか、かなりガタガタと揺れていました。f:id:unknownhuman12340:20190313174613j:imagef:id:unknownhuman12340:20190313174758j:image

相次ぐ地震に対して、それでもなお復興を目指そうとする姿勢はぜひ応援したくなるものです。

さて、低気圧の影響などもあって1、2時間程度遅れての乗船です。今回乗ったのはゆうかり、2001年頃就航と、私と同世代の船です。姉妹船にらいらっくがあります。

f:id:unknownhuman12340:20190313175138j:imagef:id:unknownhuman12340:20190313175145j:image

新日本海フェリー運送業を重視していて、深夜発深夜着というのが一般的なダイヤです。しかし、新潟発着に関しては夕方発昼までに到着という形で、北海道から新潟に行こうという時に有効に使えます。

今回は先ほど述べた通り勢力の強い南岸低気圧の接近で、ただでさえ荒れる冬の日本海がさらに時化て白波が立ち、かなり揺れました。下りても揺れている気がします。そのため、船旅の初心者には正直あまり向いていない気もします。船の風呂なんか見てたら面白かったです。海の波とともにゆらりゆらりと湯船の湯ごと全部動きます。風呂といえばサウナが付いていました。しかしその暑いこと暑いこと、湿気もありますけれどもそもそもが熱いわけで、1分もいられないような感じでした。(もしかするとさんふらわあさっぽろがぬるかっただけかもしれないが)

さて、苫小牧港を出て日本海に出る途中には津軽海峡を通るので、竜飛岬などが見えてしかるべきですが、深夜なので寝ていました。北行だったら昼間に通るらしいので見ることができるでしょう。日本海に出てまず見えたのは男鹿半島です。f:id:unknownhuman12340:20190313215851j:image海側に出ているのでよく見えます。そうこうする間に秋田港に到着しました。f:id:unknownhuman12340:20190315182624j:imagef:id:unknownhuman12340:20190315182633j:image1時間程度の停泊で、下船はできませんけれども、外からも秋田の賑やかさというのはよくわかります。秋田に関してはいつかまた行った時に詳しく述べたいと思います。

さて、そのあとは山形県沖を過ぎ、新潟港に着きました。f:id:unknownhuman12340:20190315184218j:imagef:id:unknownhuman12340:20190315184223j:image新潟もやはり港湾都市で栄えていますが、これは国際拠点港湾であることもさることながら、日米修好通商条約によって開かれた港(他は函館は和親条約から継続して開港、神奈川(横浜に変更。下田は閉港)神戸、長崎)でもあるからだと考えられます。そのような史跡も残っていますが、今回は訪れませんでした。ところで、先日ジェットフォイルがクジラかなんかとぶつかったことで話題の佐渡汽船も新潟港から出てはいますが、新日本海フェリーと場所が異なります。ちなみに佐渡汽船について少々述べますと、新潟港からの場合フェリーとジェットフォイル両津港まで、寺泊港から赤泊港直江津港から小木港にそれぞれ高速船が出ています。さて、港に着いた時は曇り(あるいは小雨)でしたが、20分くらい歩いて新潟駅に行こうとする間に雨どころか雪まで降り出したのは、やはり低気圧と低温の影響でしょう。

もともと小樽からで9時に着く予定でしたが、今回着いたのは17時頃とだいぶ遅かったので、佐渡金山などに行こうと思っていましたが、予定を全てカットし、何もせずに新潟駅に向かい、駅前のビックカメラなどをふらふら見たり夕飯を食べるなどということをしていました。f:id:unknownhuman12340:20190315192944j:image旅行したら現地の名産品をいただくという思想のもとコメは魚沼産のコシヒカリです。ちなみにこのセットを頼むとおかわり自由でした。

新潟は思いのほか結構栄えているところだということで、どのようなところかがよくわかりました。(田中角栄さんとか林家こん平師匠とかの尽力もあることでしょうけれども)今度またゆっくり来てみたいと思います。f:id:unknownhuman12340:20190315184906j:imagef:id:unknownhuman12340:20190315184910j:image

今回の旅行は悪天候で日程がかなり崩れる結果となりましたが、1日全部崩壊というわけではなく、午後からということで、退屈はしなかったということが救いでした。一応旅行はこのようなこともあるということは忘れてはいけないし、あるいはこういうことを十分考慮しなければならないということを改めて思い知らされたものです。今回はフェリー乗船が主となってしまったような感じがあるので、今度来る時は史跡やら博物館を巡ることを主にしたいと思います。

今回の旅行

さて、申し遅れましたが今回の旅行の目的と手段を申し上げます。

第一の目的は用事がある札幌に行くということで、せっかく行くんだったら飛行機じゃ面白くないと思い立ちましたのでフェリーで行ったと、そういうわけです。

第二の目的は帰りに寄る新潟です。佐渡金山でも見ようかというわけですが、先日の佐渡の高速船事故でいけるかが不透明です。行けなかったら別のところにします。

第三の目的はそれこそフェリーです。数あるフェリーに乗ってきましたが、商船三井フェリーは新造船になった後乗ったことがなく、新日本海フェリーはそもそも乗ったことがないということで乗ってみようと、そういうわけです。

さて、旅程に関して申し上げます。

①大洗発〜②苫小牧着〜札幌〜④小樽発〜⑤新潟〜佐渡島〜新潟〜⑥東京です。

最近の傾向として、高速バスを使うことが減ってきているように思いますが、今回は新潟〜東京で使います。新幹線でも良かったと思いますが、まあ高いの高いの、さらには新潟で遅くまで観光できないというのもあるため、例によって一番効率のいい高速バスが良いのです。一方で旅程には1回フェリーを組み込むことが多いと思いますが、これは入浴や宿泊を兼ねます。長旅だと風呂に入れませんので、銭湯を使うのも良いわけですが、むしろ交通手段と一緒にフェリーで入った方が明らかに効率がいいといえます。

さんふらわあさっぽろ乗船記

リアルタイム旅行記でございます。あらかじめ申し上げますと、カメラ壊れてある程度ピンボケなのでご理解とご協力をお願いします。第一日目、大洗から苫小牧までの商船三井フェリーさんふらわあさっぽろに乗船しました。f:id:unknownhuman12340:20190310201323j:imageさんふらわあさっぽろは、2017年に僚船のさんふらわあふらのとともに新造船に置き換わった極めて新しい船です。先代より速度が上がり、苫小牧〜大洗の時間短縮もなされました。夕方便は19:45に大洗を出港し、翌日13:30に苫小牧に入港します。

f:id:unknownhuman12340:20190310230959j:imageこちらは乗船券です。バーコード式になっています。びりっと破くチケットなんて時代遅れになったようです。乗船・下船券を兼ねているようで、下船時もこのバーコードをスキャンし、持ち帰ることができます。旅の思い出ということでしょう。さて、乗船するとこんな感じです。f:id:unknownhuman12340:20190310232252j:imagef:id:unknownhuman12340:20190310232310j:imagef:id:unknownhuman12340:20190310231535j:image
f:id:unknownhuman12340:20190310231546j:image高級感あふれています。また、今回ツーリスト(いわゆる雑魚寝)で行ったわけですが、各布団(?)にカーテンで仕切ることができ、プライバシーの類にも配慮されていました。

夕食はメインディッシュ(ハンバーグや冷しゃぶなどから1品)とサラダやご飯味噌汁、デザートは食べ放題という方式です。f:id:unknownhuman12340:20190310231347j:image夕朝食を合わせて¥2300と、まあ安いんだか高いんだかという感じですが、バイキング形式なので良いと思います。

さて、その次は風呂です。展望浴場ということで、太平洋を望むものでした。サウナにも窓が付いており、サウナにまで展望を求めている面白いデザインです。男性浴場は右舷側、女性浴場は左舷側にあります。往復で見る光景が違うといえます。

ところで、航路に関しては福島第一原発の影響もあってか、ずいぶん沖合を航行していたようで、陸地がほとんど見えませんが、翌昼の青森の尻屋崎灯台あたりからちょっとずつ見え始める感じでした。

話は前後しますが朝食です。朝食は完全にバイキング、とろろなんかもあって、結構食べました。(とろろが好物なだけですけれども)

フェリーといえば展望デッキでしょうか。少なくとも私はそうですが、さんふらわあさっぽろ・ふらのともに展望デッキは後方にあります。また、スイートルーム始め上級客室の場合ベランダが付いており、そこから外にでて、外を望むことができるようです。f:id:unknownhuman12340:20190310232944j:imagef:id:unknownhuman12340:20190310232959j:imagef:id:unknownhuman12340:20190310233009j:imagef:id:unknownhuman12340:20190310233049j:imagef:id:unknownhuman12340:20190310234922j:image順番は適当ですが、だいたい苫小牧入港前です。2枚目は苫小牧市街、製紙業や鉄鋼業、石油化学工業などが盛んなのでそれ関連の工場が多くあります。また、4枚目は活火山の樽前山です。海側からだと見えませんが、カルデラ湖の支笏湖もあります。樽前山登別温泉は多分関係ありません。こっちはやはりカルデラ湖の倶多楽湖をもつ火山に関係するものだと考えられます。5枚目は苫小牧にいた、太平洋フェリーのきたかみです。これは今年就航したばかりの新造船で、私は先代に仙台に行ったときにお世話になりました。一応太平洋フェリーについても申し上げますと、苫小牧〜仙台〜(隔日)名古屋をきたかみ・きそ・いしかりの3隻で運航しています。また、苫小牧港に関して申し上げると、シルバーフェリーが八戸まで運航しています。もう一つだけ苫小牧港について補足しますと、ここまで出した会社は西港から、新日本海フェリーは東港から運航しています。やや距離があります。

閑話休題、翌日13:30に苫小牧に入港し、これにてさんふらわあさっぽろの旅も終わりです。新しくなって初めて乗りましたが、先代と全く変わっていて驚きました。快適な「移動」に特化する形で進化したと言えるでしょう。

蛇足ながら先代さんふらわあさっぽろ・ふらのと現在の代との見分け方を申し上げますと、客室後方に縦長の窓があるかないかということです。f:id:unknownhuman12340:20190310234133j:imageあるほうがいずれも現在のものです。この縦長の窓は何かというと、f:id:unknownhuman12340:20190310231546j:image先ほども出したこの写真の左側にある大窓に当たります。吹き抜け構造になっているため大型の窓なのです。

 

今更旅行記総括

ネタがない…というわけではありませんが、せっかくなので、この旅行記の総括と自問自答をしたいと思います。

実は最近高校を卒業しまして、大学生になれるんだか浪人するんだか分かりませんけれども、いずれにせよ旅行はこれからも何度もしていくものだと思います。本人が言うのだから間違いない。それにしても私の旅行のそもそもの目的は結局、歴史の現地研究というものであり(というのはこのブログの記事からも十分わかることと思いますが)、これからもそういう目的であることは間違いありません。ところで旅行で考えたことも様々ありますが、特に一人暮らしなんかするにあたって考えるべきだと思ったことは、「居住と観光は全く異なる」ということです。観光というのは所詮1・2日、長くて2週間くらいの短いものでしょうけれども、居住することは1年、あるいは一生であるということで、住みやすさというのは極めて重要な要素です。そんな中で「観光」というのは、地域の表面的な部分しか知ることができないという点で、地域の深い部分、年中行事や日々の生活、鉄道の便(観光でもわかるかもしれないが、観光は大体うまくいくように最初からどうにか仕組んでいると思う。日常利用としてどうなのかを考えてみるべき)や近所付き合いといった「居住」とは違うのですところを考えるときはぜひ考慮するべきことと思います。

 

さて、ここからは私の旅行に対する考え方をまとめたものです。私自身への旅行への姿勢の再確認用という目的も含んでいるのでツッコミはしてもいいししなくてもいいです、ハイ。

⑴予算に関して:0泊3日は一回あたり3万程度、そ以外は概ね5万くらいを目安に組んでいます。宿なんかとらないので安くなるのは当たり前ですが、宿をとらないために例えば高速バス車中泊、フェリー船中泊などをする事で極限まで値段を削ります。前者はキッツい場合もありますのでなんとも言えませんけれども、後者は面白いので最近増えています。多分これからフェリーがメインになることでしょう。手段はあくまで手段であるということで、目的は現地の活動であるから、それを十分でき、なおかつ安い手段を考えなければなりません。(フェリーは手段も目的も兼ねてますけれども)

⑵海外の予定:あります。最初は近場で台北など考えていますが、後々ワーキングホリデーとか留学の類を使って、はたまたふつうに行ってヨーロッパ、あるいは青年海外協力隊(半ば観光目的、ただそれにしても考古学とか観光分野があるのでね)の類でアフリカの国とかに行きたいと思ってますが実現するかりませんので予防線を張っておきます。ただ、最大限削りますので、北京かモスクワ経由が多いと思います。中国国際航空とかアエロフロートが安いのです。また、ヨーロッパに関しては地中海はフェリーの船旅なんかもいいよねと思ってます。ただ、理想だけしか言っていないのでなんとも言えないという予防線は何重にも貼っておきます。

⑶日本縦断:しますよ。ルートなんかいくらでも考えられますが、各県回遊というのではなく飛ばし飛ばしになるかもしれませんが、それでも10万と1週間あればいけます。(前試算した)ただ、するにしても私の趣味で京都か奈良をどこかに入れるかもしれませんし、あるいは全県制覇を目指して何か入れるかもしれません。

⑷要するに:金ください。

以上です。「金は天下の回り物」とはよく言ったものです。最近某鉄道すごろくゲームやっているとよく思うわけですが、資産運用でもしようか、あるいはこのブログをアフェリエイトかなんかやろうかと思いましたがよく分かりません。

 

 

 

 

今更旅行記-⑧近畿地方〜⑵お伊勢参り・名古屋

さて、前回の大和八木駅からは、五十鈴川行きがあるので、終点まで乗り通しますと、その近くには伊勢神宮があります。伊勢神宮には外宮と内宮があり、それぞれ違う種類の神社です。普通は外から内に参詣するらしいですが、そんなことは知らなかったので内宮から参りました。

さて、まずは内宮です。

内宮は言わずと知れた皇室の祖先神である天照大神を祀っています。f:id:unknownhuman12340:20190301153148j:image境内には清流である五十鈴川が流れており、お清めの場所として古来から用いられていたようです。ちなみに小魚もそこそこ泳いでいます。f:id:unknownhuman12340:20190301153302j:imageさて、この写真を見て分かるかと思いますが、橋脚があります。これは先代の宇治橋で、直近の平成25年(=2013年)の式年遷宮において架け替えられ、この写真は新しい方の宇治橋から撮影したものです。(宇治橋とは伊勢神宮の内宮の大鳥居をくぐった後すぐにある橋)ちなみに外宮でも同時に行われます。なぜ式年遷宮が行われているかについて申し上げると、神様が綺麗好きだからという説や、弥生時代の建築様式を残そうとしているからという説、はたまた恒久的な都(藤原京以降)ができたから、その代わりに式年遷宮を行おうとしたという説などさまざまありますが、その目的ははっきりわかっていません。

ところで、このように極めて長い歴史を持つ伊勢神宮ではありますが、世界遺産にはなっていません。その理由がまさに式年遷宮で、建物を全て新しく作り変えるからです。遺物というべきものはほとんど存在しなくなるため、一応長く続く「文化儀礼」にはなり得るでしょうけれどもそれと遺産とは必ずしも結びつくものではないということがよくわかるものと思います。世界遺産に関して申し上げてしまうと長くなりますが、私がどうしても理解できないのは「近代日本産業の遺産群」とかいうんで富岡製糸場の類が登録されていることです。いや、ただ私が近代史が大嫌いなだけと言えるかもしれませんが、よく考えていただきたいのは、近代産業の遺物なんかそれこそイギリスにも多くあるわけだから、とりわけ日本のものが登録されるというのも果たしてどうかと思うものですが、実際のところイギリスもそういったものは世界遺産であり、さらには日本の近代の急速な工業化というのも実に並外れたものであることは否めないため、それを残そうという意図はわからなくもありませんが。

さて、伊勢神宮の話に戻ります。f:id:unknownhuman12340:20190301154230j:imagef:id:unknownhuman12340:20190301154234j:image伊勢神宮はやはり祭祀施設であるからして、このようにさまざまな蔵などが点在していますが、これらに共通して見られたことが高床倉庫であったということです。創建当初の弥生時代からの建築技法を貫いているのでしょう。実に興味深いものです。それこそ先ほど述べた式年遷宮の意義の一つに合うものでしょうか。

さて、内宮の方にある「おかげ横丁」なるものといえばf:id:unknownhuman12340:20190301160147j:image赤福ですね

赤福というのは見ればわかる通り、お餅にえあんこがのったものです。「崩れやすいので水平にお持ちください」とあるわけで、いかばかり崩れやすいかと思ったらなるほど、これは崩れやすいわけです。あんこが取れたらほぼ台無しですから実際に崩さずに持たなければなりません。お茶と合いそうだと思いました。

さて、なぜ私が伊勢に行ったのかということについて述べても良いのですが、身バレなどすると迷惑になってよろしくないので割愛させていただきます。ただ、実に充実したひと時を過ごさせて頂きました、ということを申し上げるばかりです。ここに感謝申し上げます。

さて、この後は外宮に参りました。こちらは伊勢市駅から直結(というほどでもないかもしれないが、参道が目の前からある)しています。

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踊り場がありました。前もどこかで書いた気がしますが、こういうところで舞をすれば実に神秘的なものでありましょう。

さて、次は外宮です。f:id:unknownhuman12340:20190301162018j:image外宮は衣食住や産業の神である豊受大神を祀っているところです。ところでこちらの方が、例えると京都と奈良で言うところの奈良みたいな、やや質素な印象を受けるわけが、どうもこれは多くの人が感じているようです。少なくとも江戸時代まではこのようなことはなかった、つまり五穀豊穣の神などでもある豊受大神が鎮座しているから、江戸時代においては特に特別扱いされたというわけではないと考えられます。従って、この理由についてはおそらく明治時代以降の天皇観が影響しているものと思われます。すなわち、天皇や皇族の祖先神たる天照大神を大きく祭り上げることが重要視されたことによるもので、従って外宮の豊受大神はやや見向きされなくなりつつあった、ということです。決してどの神が格下だというわけではありませんが、当時の思考ではそのようなものであったことだということが窺い知れます。

さて、ここで申し訳程度の鉄道成分

伊勢市駅名古屋駅に向かうわけですが、並走する近鉄とJRのいずれが安いかというと近鉄の方が安いです。ちなみに津駅では近鉄側に向けてJRの広告が出ているほど露骨な競争になっていることがわかります。

さて、この後は名古屋に参りました。f:id:unknownhuman12340:20190301174719j:image名古屋といえば名古屋城ですが、行ったら遅すぎてしまってましたので諦めて熱田神宮に行きました。f:id:unknownhuman12340:20190301174747j:imagef:id:unknownhuman12340:20190301174751j:image熱田神宮というのも伊勢神宮などと並ぶ規模の大きい神社で、宮中の四方拝で拝される神社の一つです。御神体三種の神器の一つである草薙剣です。やはり暗くてあまり良く見えませんが、周りの都会の喧騒とはうって変わった静かで荘厳な雰囲気がまた良いものです。

 

さて、以上が今更旅行記⑨です。奈良に関してはもっとじっくり探求してみたいし、名古屋に限らず愛知県など中部地方に関してはもっと時間をとってゆっくり見てみたいようなところも多くあります。そのため、今度中部地方に行く際には名古屋に限らずその他周辺の名所なども巡って見たいものです。

 

今更旅行記-⑧近畿地方〜⑴奈良

さて、今更旅行記シリーズも最後になりました。⑨以降は普通の旅行レポートになります。

今回の日程は、大阪に所用がありましたのでそれを済ませながら奈良を巡りつつ、伊勢に行き、名古屋に抜けるという近鉄が大活躍するものです。

①東京発〜②大阪着・奈良1泊〜③奈良〜伊勢〜名古屋 でございます。

まず②の奈良に当たるところから参ります。

去年の夏の話です。いつも平城京周辺に行くので、では今度は藤原・飛鳥京の方に行ってみようと思いたったのでございます。大和八木駅からサイクリングでしたが、実に楽しいものでした。

まずは藤原宮跡です。f:id:unknownhuman12340:20190227135017j:imagef:id:unknownhuman12340:20190227135021j:image藤原京において、宮というのは街区の中央に位置しました。その点で平城京平安京とは大きく異なりますが、これは平城京平安京長安をモデルとするのに対して藤原京が洛陽をモデルにしているからだと言われています。

さて、ここで藤原京に関して申し上げます。藤原京というのは694年(平安京遷都のちょうど100年前)に、各天皇が各治世の間にそれぞれ造営した飛鳥宮(浄御原宮とか板蓋宮とか)の形式を変え、何代かに渡る継続的な使用をめざし、女帝の持統天皇がここに遷都したというものです。ここも他の宮城と同様に条坊制が敷かれ、しかも平安京平城京よりもやや大きいものとなっています。また、他の宮の例に漏れず、太極殿や朝堂院の跡なども残っています。f:id:unknownhuman12340:20190227204141j:image

藤原京といいますと、大和三山の存在が挙げられます。畝傍山耳成山、天香山ですね。それぞれを読み込んだ和歌が万葉集にあり、「思ひあまり甚もすべ無み玉だすき畝火の山にわれは標結ふ(詠み人知らず)」「耳成の池し恨めし我妹子が来つつ潜かば水は涸れなむ(詠み人知らず)」「春過ぎて夏来たるらし白妙の衣ほすてふ天香山(持統天皇)」などがあります。特に一番最後の持統天皇の歌は百人一首などにもあるので有名です。ところでこの歌には「夏来たるらし」「夏来にけらし」あるいは「衣干したる」「衣干すてふ」と、微妙に異なったバージョンがあります。「夏来たるらし」の場合「夏が来ているようだよ」、「夏来にけらし」の場合、「夏が来たらしいよ」となるでしょうし、「衣干したる」だと「衣を干している」、「衣干すてふ」だと「衣を干すという」と、それぞれまた印象が異なるものになります。それぞれ後者が百人一首などの後世に伝わっているものですが、比較してみると前者は実際に夏頃に見聞したという臨場感があり、後者は夏を待ち遠しく思っているのか、あるいは伝聞を受けたかような印象を受けます。どちらがいいというのは判断がつき兼ねますが、私は感動を素直に読み込んでいると感じられる前者の方が好きです。

これに関連して、f:id:unknownhuman12340:20190227203019j:imagef:id:unknownhuman12340:20190227203005j:image天武・持統天皇陵にも行ってまいりましたのでここに貼っておきます。野口王墓とも言われている、古墳時代末期の八角墳です。文献資料などによってこの古墳は実際に天武天皇持統天皇が合葬されているということは確実視されていますが、1235年ごろに 棺や副葬品が暴かれて盗難されてしまっており、実物の確認は取れていません。ちなみにこの付近には装飾墳で有名な高松塚古墳などがあります。

さて、藤原京の話に戻ります。結局藤原京は、持統天皇以降文武・元明天皇の使用ののち、710年に少し北の平城京に遷都された後は荒廃してしまいました。

ところで、この時代には白村江の戦い以降で遣唐使が一時中断しているなどしていましたが、701年には藤原不比等や刑部親王が編纂に関わった大宝律令文武天皇の元で制定されるなど、律令国家建設が完成を迎えました。また、持統天皇自身、文武天皇に譲位して政務を行った(つまり日本初の院政が行われていた)ため、政治は安定していたと考えることができます。このため、白鳳文化が花開き、興福寺仏塔(もと山田寺の本尊の頭。鎌倉時代山田寺焼失によって興福寺に移されたという。)や法隆寺の夢違観音(悪夢を見たらこれに祈ればいい夢に変えてくれるという)などさまざまな仏像などが製作されました。

ところで、この時代頃から天皇は神と同一視される(いわゆる現人神)ようになったと言われています。f:id:unknownhuman12340:20190227205709j:imageここ雷丘では、柿本人麻呂が「大君は神にしませば天雲の雷の上に庵りせるかも」という歌を残しています。ちなみに雷丘には何があったかが諸説あり、雷丘やその周辺に推古朝の宮廷、奈良時代淳仁・称徳朝の宮廷(小墾田宮という)や、はたまた墓がある(雷丘の由来になった雷神伝説を残した人物が埋葬されていると言われている)とさまざまに言われていますが、中世には築城者や築城年代など全く未詳ではあるものの城ができたようで、これらが全て破壊されてしまったようです。

 

さて、時代は遡って次は飛鳥時代です。これも古墳時代にあたりますが、仏教伝来(538・552年のいずれか)〜大化改新頃を指すということが一般に言われているようです。最たるものでは聖徳太子こと厩戸王の摂政や蘇我氏の台頭などがあります。

さて、まずこの時代に一貫して存在した仏教について申し上げます。日本における仏教は、欽明朝の公伝(538年:「元興寺縁起」「上宮聖徳法王帝説」。552年:「日本書紀」)以前から渡来人による私伝(つまり個々人の信仰で伝わってきたということ)もありました。いずれにせよこの公伝もよくわかっておらず、

少なくとも欽明天皇百済聖明王から仏教関係の道具などを受けて伝来した、ということは確実のようです。その後、仏教を受容するべきと主張する蘇我氏(具体的には蘇我馬子ら)と原始神道を維持するべきと主張する物部氏(物部守屋ら)との間で崇仏論争がおき激しく対立しましたが、結局蘇我氏側が勝利し、推古天皇が擁立されました。これに際して飛鳥寺が創建されています。f:id:unknownhuman12340:20190227211749j:imagef:id:unknownhuman12340:20190227211816j:image

飛鳥寺、あるいは法興寺元興寺というのは、蘇我氏の氏寺として創始されました。鞍作止利(止利仏師)が製作したとされる大仏が有名です。f:id:unknownhuman12340:20190227211957j:image

仏像にしては珍しく撮影が許可されています。止利仏師製作に仏像は杏仁型の目、アルカイックスマイルなどを特徴としていますが、やはりこれも例に漏れずそのような特徴が現れています。そうはいっても度重なる落雷などの焼失でやはり被害は受けているようで、この像もかなりの部分が補修を受けているものと言われています。しかし実は大部分当時のものが残っているという説もありまして、実際のところよくわかっておりませんが、少なくともこの台座と仏像の位置だけは飛鳥時代からずっと動いていないと言われています。

この後平城京に都が移ると飛鳥寺の機能だか法人だか自体(というんだかわかりませんが)は平城京に場所を移し現在もある元興寺になり、現在まで飛鳥寺元興寺の二つがある状態で続いています。同様の寺院には薬師寺大官大寺(大安寺)などがあります。ちなみに薬師寺に関しては本薬師寺が飛鳥にあったもので、現在では礎石だけが残っています。また、一般に薬師寺と呼ばれるところは東塔や本尊の薬師三尊が極めて有名なところで、もう一つ、春日大社のあたりにある新薬師寺は、奈良時代聖武天皇の発願で建立されたものであると言われています。こちらは大きな目を特徴とする薬師如来坐像が有名です。

飛鳥寺は創建当時は金堂や東堂などを備えた、それこそ法隆寺などにも引けを取らないくらいの大規模な寺院だったとされていますが、現在ではほとんど縮小してしまっています。また、奈良市元興寺の方も興福寺の勢力拡大の一方で衰退したり、あるいは曼荼羅信仰などで勢力を盛り返したりなどしましたが、度々の火災で五重塔を焼失したり明治時代の廃仏毀釈でボロボロになったりなどしましたが、その後修繕されるなどして極楽坊など現在にも残っています。

飛鳥時代の仏教の話に戻りますと、飛鳥時代の寺院といったらそれこそ法隆寺中宮寺広隆寺なども上げることができるということも申し上げます。

さて、飛鳥時代で大きな勢力を持った蘇我氏厩戸王について申し上げますと、これは実に有名ですが、冠位十二階や憲法十七条、遣隋使の派遣などさまざまな政策を行いましたが、憲法十七条では「厚く三法を敬へ。三法とは、仏法僧なり。」などといった役人の心構えをしめしましたが、ここに見られるように仏教の扱いは極めて大きいものでした。また、遣隋使に関しては第2回で小野妹子を派遣し、「日出づる処の天子、書を日没する処の天子に致す、恙なきや(日出處天子致書日沒處天子無恙云云)」と、明らかに宗主国たる隋と対等に立とうという内容で煬帝の怒りを買いましたが、それでも返礼に裴世清を送るなどしています。しかし、隋は聖徳太子存命中に煬帝が暗殺され、新たに唐が起こるなどしていますが、初の遣唐使厩戸王死後の630年、犬上御田鍬を正使として実施されていますが、遣隋使・遣唐使いずれにせよ、中国に先進文化を学んで取り入れようという意図は共通するものです。また、冠位十二階についてはこの後の位階に発展し、さらには官職とも結びついた官位相当の制に発展するその基礎となったものということができます。上から、徳・仁・礼・信・義・智とそれぞれの大小で合計12の位を、それぞれ色分けした冠を与えるというもので、先ほどの小野妹子は最高位の大徳の位を得ています。このように聖徳太子は様々な政治改革を行いました。この背後にいたのがまさに蘇我馬子、というわけです。蘇我馬子は自らの権力を集中させるために崇峻天皇の暗殺を唆したと言われていたりしますが、何にせよ蘇我氏の発展の基礎(といっても次の代で終わるが)を築き、絶頂期の中にいたような人でもあります。その蘇我馬子の墓とされるのがが石舞台古墳です。

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石舞台とは言いますが、結局石室が露出しているだけで、実際墳丘などがあったと考えられます。周りの形からすると方墳の系統であったということは明らかで、上円下方墳だとか、二段からなる方墳だとか色々いうことはできます。いずれにせよ横穴式石室の大規模な古墳であるということが言えます。内部に入ることができますが、棺の類はほとんど持ち出されている(一説では乙巳の変によるもの?)ので何も残っていません。

さて、ここまで色々述べてまいりましたが、私はこれ以外にも橘寺やその目の前にある川原寺(弘福寺)も見てきたということを申し上げておきます。ところでこの二つの寺院に関しては僧寺と尼寺の関係があると考えられています。橘寺は聖徳太子が建立したとされています。二面石が境内にあります。ところで、飛鳥地方の石像はこの二面石以外にも、猿石や亀石、酒船石など色々ありますが、それぞれ何を意味しているかはわかっていません。仏教以前の信仰対象からインテリアというものまで様々考えることはできます。一方川原寺に関しては、天智天皇が発願したもので、古代では飛鳥地方でもかなり大規模な寺院であったと言われていますが、現在では寺院跡だけ残って衰退してしまっています。その後身に弘福寺があります。

さて、最後に中途半端に右側に写っている飛鳥水落遺跡を説明して締めとさせていただきます。

f:id:unknownhuman12340:20190227224446j:image飛鳥水落遺跡というのはさっくりいうと漏刻の跡です。漏刻は天智天皇が初めて作ったと言いますが、この水落遺跡がまさにそれだとされ、この写真に見える柱群の中央にその跡があります。

ここで漏刻については少し説明しますと、漏刻というのは端的にいうと時計の一種類です。当時の時計は日時計(太陽の動きに伴って、地面に刺さった棒の動きが変わることで時刻をはかる)や水時計、つまり漏刻がありました。どちらも時刻を測ることができますが、私見ながら日時計を太陽に基づく絶対的なものということができるとすると、漏刻はあくまで水を用いて一定の期間しか測れないため相対的なものということになるかもしれませんがどうなんでしょうか。経験で1日分に当たる水量が分かればそれこそ日時計より絶対的なものになったと思いますが。もしかするとどちらの機能も備えていて、時刻と時間をいずれもはかることができるものだったのかもしれませんが、それはさておき、日本の明治以前の時刻の捉え方について簡単に申し上げと、十二支で捉えていたのかわけです。(つまりは一日を12の単位で捉えていたということ。現代からすると2時間×十二支の24時間で捉えていたと言うことはできるが、当時そんな1分を60秒としたものが60分集まった、1時間という概念はなかったわけだからなんとも言えないわけだが、それにしてもなぜ東洋と西洋でどちらも12の倍数で捉えていたのかという話に関しては長くなるので割愛。あとで書くかもしれない)

さて、この水落遺跡が完成し、使われ始めた日が6月10日とされています。現在これは時の記念日とされています。

 

さて、このように色々巡ってきましたが、帰りに橿原神宮を回ろうとしてサイクリングのあまりの疲労のため断念しました。今度箸墓遺跡あたりとゆっくりいきたいと思います。

 

以上、長くなりましたが私が日本で最も推す場所である奈良県の飛鳥地方の話でした。一回これくらい書いてみたかったわけです。今でこそ田んぼばかりになってしまった場所も、様々な遺跡などがあることで往時が偲ばれるもので、またこういうところからの考古学的発見は実に面白く、興奮するものだと思います。

 

この後は八木に戻って1泊し、今度は伊勢の方に向かいます。すごい日焼けしました。申し訳程度の鉄道成分を出しますと、大和八木駅近鉄大阪線近鉄橿原線が交わっており、京都行くにも大阪行くにも名古屋行くにも極めて便利な場所です。関東でいうと小山駅でしょうか。橿原線の次の駅である八木西口駅大和八木駅と同一の運賃計算をなされていることで一部の鉄道マニアの間では有名な話です。

今更旅行記-⑦仙台

さて、⑥でわずかにしか行かなかった仙台をゆっくり巡ろうという目的で、仙台にゆっくり行きました。

今回の行程:1日目:東京発〜2日目:仙台着・観光〜3日目:東京着 でございます。

まずは多賀城です。f:id:unknownhuman12340:20190226162245j:imagef:id:unknownhuman12340:20190226162250j:image今でこそ跡としてしか残っていませんが、やや高台にあり、仙台を見下ろせるくらいの位置にあります。

多賀城について申し上げますと、多賀城とは奈良時代(724年)に造営され、当時の東北地方の蝦夷(朝廷に従わない人々)の制圧のために置かれた軍事拠点、あるいは鎮守府です。また、陸奥国府も置かれ、日本・大和の朝廷の出先機関としても存在しました。しかし、平安時代に入るとすぐの頃に、朝廷の対蝦夷政策に蜂起した蝦夷の族長であった伊治呰麻呂がここを焼き討ち焼失しましたが、その重要性からすぐに再建されています。その20年ほど後、鎮守府将軍征夷大将軍坂上田村麻呂はさらに対蝦夷戦線を北上させ、現在の岩手県奥州市にある胆沢城に鎮守府の機能を移転させました(これに関しては、胆沢まで進出してきていた阿弖流為<アテルイ>が降伏したことが背景にある。有名な話に、降伏した阿弖流為の武勇を見込んだ坂上田村麻呂阿弖流為の助命を嘆願したが、結局阿弖流為は処刑された、というものがある。また、この翌年には盛岡市に志波城を築城した。)が、それでも多賀城国府の機能は据え置かれていました。しかし、貞観地震(869年)で大きな被害を受けたことから徐々に国府の機能も失われ始め、結局平安時代の終わりころには荘園公領制の進展とともに有耶無耶になっていますが、それでも平安・院政時代に東北地方で発生した前九年の役後三年の役においては軍事拠点として重要な役割を果たしています。その後源平合戦の頃はもうすでに東北地方の中心は奥州藤原氏の拠点である平泉になっており、ここの衰退は目に見えるものとなっています。しかしその後においても、東北地方における何かしらの拠点にはなっていて、例えば完全に国府という制度が見られなくなった、室町幕府初期・建武政権時代の陸奥将軍府などが設置されています。(ちなみに足利義満の頃以降の室町幕政下における奥州探題とは別。また、この後に勢力を拡大する奥州守護・伊達氏に関していうとそもそも福島県が拠点である。)しかし、それらの後は特にこれといったものもおかれておりませんが、江戸時代に多賀城碑が再発見されたことで再び研究が始まったということです。

また、多賀城の裏手には廃寺があります。f:id:unknownhuman12340:20190226234512j:image大規模な寺院であったことは相違ありませんが、詳細はよく分かっていないようです。

さて、次は仙台城に参りました。f:id:unknownhuman12340:20190226234938j:imagef:id:unknownhuman12340:20190226234816j:image仙台城青葉城ともよく言われます。冒頭でも「青葉城恋唄」と述べた通りでございます。広瀬川が城のある小山の麓を流れ、いわば天然の要塞のようになっています。

仙台城天守閣を持たず、京都の二条城のような広大な屋敷がありました。現在その建物自体は残っていません(そもそも明治時代の軍制下で鎮台が置かれていたくらいなので)が、その礎は残っています。仙台城にはその通り仙台藩が構えていたわけです。初代仙台藩主は独眼竜こと伊達政宗公です。f:id:unknownhuman12340:20190226235355j:image

さて、ここで伊達政宗に限らず、伊達家に関して申し上げますが、なぜここで取り上げるかといいますと、私の地元に深く関わりがあるからです。

伊達家は茨城県西部の伊佐や栃木県南部の中村を発祥としています。したがってもともと伊佐氏と称していたのですが、伊達家初代当主の伊達朝宗が奥州合戦(源頼朝vs藤原泰衡奥州藤原氏が滅亡した戦い)において、源氏側で武勲を挙げたために伊達軍(現在の福島県伊達市)のあたりの土地を安堵され、(つまり与えられた)そこから戦国時代に至るまでに大きな勢力になります。しかしそれにも紆余曲折あり、南北朝時代南朝方につき、先ほどの伊佐城の落城などもあって北朝方に降伏しています。しかしその後、室町幕府と接近し鎌倉府に反旗を翻したり、戦国時代に入ると伊達稙宗陸奥守護に任じられ奥州探題を勢力下に置くなどして拡大し、有名な分国法である「塵芥集」を定めるなどしました。その後、安土桃山時代天正年間には伊達政宗が当主となりました。文禄の役に参加したり、関ヶ原の戦いで東軍(徳川家康側)についた譜代になる見返りに上杉氏に奪われていた勢力圏の奪還を許されました。その後家臣の支倉常長らをメキシコ・スペイン・ローマに派遣し(慶長遣欧使節)f:id:unknownhuman12340:20190227001931j:imagef:id:unknownhuman12340:20190227001936j:imageローマ教皇パウロ5世に謁見させています。その後、政宗豊臣秀頼の討伐である大坂の陣に参加し、その戦功により伊予・宇和島藩を得て、長男をそこに置き、宇和島藩が成立しました。幕末には宇和島藩仙台藩で、薩長政府に対する態度が真逆で、宇和島藩では藩主・伊達宗城は殖産興業政策を行い、明治新政府における議定になるなどして活躍しました。一方仙台藩では、戊辰戦争奥羽越列藩同盟側に与して敗北し、家臣は領地を没収されたために北海道に移住し、北海道開拓にあたりました。したがって北海道にも飛び地で有名な伊達市がありますが、ここも伊達氏が大きく関わっています。

このように伊達氏に限った話ではないと思いますが、ある一つの武家といっても様々な場所に関与しているものです。

さて、ここで少し出てきた慶長遣欧使節関係の写真は仙台市博物館に所蔵されていることをここに明記しておきます。件の写真の肖像画などは世界記憶遺産だかに登録されているものです。

仙台といえばグルメもありますね、牛タンとずんだ餅ですが。
f:id:unknownhuman12340:20190227003505j:imagef:id:unknownhuman12340:20190227003458j:image

ずんだ餅はこのとき初めて食べたのですが、なるほど枝豆なんですね。

 

申し訳程度の鉄道成分

仙台駅周辺を地図で見てみますと、あの辺りで曲げなければまっすぐ行ったものをやたら市街地側にカーブさせています。これは当時の仙台の先見の明ある商人などの人々が、当時の風潮(鉄道は病気を運んでくるなどいうデタラメ)にもかかわらず、これからの商業に役に立つであろうということから熱心に働きかけたことで、強引に曲げてでもあのように市街地に入ることになったのです。結果やはりその予想は当たっていたということはできるでしょう。現在直進で行くルートは貨物線になっています。

 

さて、伊達氏は私の地元に極めて深い関わりを持つということで大きく取り上げました。地元の歴史も少し調べてみると、市をあげてやたら推しているような人よりももっと重要な人の祖先がいたりなどすることがあるのでおもしろいものだとおもいます。