とあるツイ廃のブログ

ツイ廃が140文字で抑えきれないなにかをただかきつくるもの

英語不要論…?

巷でよく聞くのと、果たして私自身英語に集中してやるべきか、それとも受験程度で放っておいて中国語やスペイン語などを話せるようにしておくべきなのかということが気になるので、検証していきたい。

1.日本にいる限りでは英語はほとんどいらない

英語というのは外国語である。つまり、我々が日常使う日本語というのは全く異なる。しかし、日本語の特徴としてよくあるのは、外国語を「外来語」として包含してしまう(ここまでは実際フランス語から英語に行った例も多々ある)ことや、最も大きな点としては、杉田玄白から福沢諭吉などの尽力により、外国語に対する訳というのは、厳密とは言えないまでもそれなりにしっかりとある(「哲学」とか「社会」とか)わけで、実は不要なのではないか?

これに関する私の答えは「はい」。たしかに私は日本で生きる以上は日本語はいらないと思う。日本語だけ十分できれば他は何もいらないと思うところだ。要するに個人の趣味で、海外進出したいか否かで学ぶべきかどうかを決めるのが良いと思う。そのとき、一般に「英語さえやっておけば〜」というのはよくいうが、例えばオーストリア行って英語しか話せないというのは野暮にもほどがあると考えられる点で、海外進出の時には現地語をある程度話せなければならないと思うところはあり、そこから見ると実際のところ絶対に英語がいいというわけではなく、いきたいところの言葉を優先して学ぶべきだと思う。

2.英語使用国が落ちぶれる可能性と、他言語の台頭

今はアメリカが経済的にも大きな力を持つために英語が広く学習されているが、昨今の斜陽の状態であろうアメリカの状況を見ると、果たしてそのままでいいのか?今も途上国や、GDP世界一位の中国語やスペイン語の方が良い可能性は?

これに関しては否、と答えるか。しかし微妙なところだ。英語は落ちぶれるか否かという問題以前の「人類共通の言語」という認識がほぼ確実になってきているところだと思われる。しかし、果たしてそうなのか?例えばこれから第三次世界大戦が勃発し、アメリカが敗戦国になり、ロシアや中国あたりが戦勝国となったら、我々はそれでも英語を学習し続けるのか?…という夢物語に等しいところは置いておき、そこに英語を学習する意味を見出すのはどうなのかと思う。現状として、これまでの情報化社会の進展は英語中心に行われてきたわけだが、しかし昨今(しかもここ2、3年)は中国語やスペイン語も目覚ましい。我々日本人は、中国語を発音するのは厳しくても読んで意味をなんとなく理解することはできるので、それを発展させて行くこともできれば良いのではないかと思う。

3.英語中心主義が気に食わない

とりあえず英語を偏重しておけという風潮が嫌だ

これに関しては、「まあ我慢しろ」ということしか言えない。しかし実際のところ、数の暴力とでもいえばいいのかはどうだっていいが、中国語が世界で最も話者数が多い。(そらそうじゃ、13億人もいるんだからな、ただし北京語に限らず広東語などの方言も包含されている)英語は2番目、それにスペイン語ヒンディー語、と続く。一方、英語さえやっておけば世界各国、世界人口の20%くらいを占める「グローバル人材」とつながることはできる。残り80%はどうするんだというツッコミはさておき、極めて偏屈で個人的な意見を申すと、この「グローバル人材」ってのは気に入らないもんで、グローバルな視点を求めるあまりローカルを捨てがちなのだ。日本語がまともに話せやしないのにグローバルというのは全く恥さらしだとは思わないのかと感じるところはある。さらに、実に反知性主義的なことを申すと、この「グローバル人材」というのは、中世ヨーロッパの聖職者のイメージ、つまり限られた人物だけが話せるという点で極めて似通っているので気持ち悪い。英語の母語話者と、学習して「グローバル人材」になった人間のの傲慢さがにじみ出ているように感じられるのだ。(だから保守反動がいま起きているというわけだろうけども) ところで、このような考えのもとで「ナイジェリアが将来出てくる」なんて話を聞いたことあるが、決してないとは言わない。実際アフリカではGDP1位だ。しかし、その産業が石油などの資源に偏重している点では果たしてどうかと思うところは多々あるので、こういうのは話半分に聞くに留めておこうと思うし、なんだったらそれを主張していたのは中国台頭前だからなおさら信用ならない。英語偏重の主張に基づく論理だ。

さて話を戻そう。結局英語偏重の考え方は、成功した人間がたまたま英語をやっていただけで、それをなぞろうとするだけの想像力のない人間がする一番愚かなことなので、英語に縛られずにいろいろやってみるといい。しかし、愚かな受験業界はいまだにそれを盲信しているわけだから、受験では「我慢して」受け入れなければならないというだけだ。(無論アメリカとかエゲレスとか行くならガンガンやるべきだが)

以上、私の結論の前に、ずっとある迷いというのをはっきりさせたい。(極めて個人的な話だが、ヨーロッパに行きたいのとオペラを理解できるようになりたいので、イタリア語とドイツ語あたりはやっておこうかと思うのだ。しかし、アイルランドあたりにも興味があり、なんだったら留学なんかもしたい(単純に英語は一番やっているし簡単)ので、英語もやっておくべきだと思い、さらにはいずれ南米に行くであろうということを考えスペイン語、また、中国文化などもわかりたいので中国語もやっておきたいのだ。つまり、5言語を操れなければいけないということだが、いかんせん手が回らない。という迷いをはっきりさせておく。一番いいのは全部やっちまえという話だ。やってしまえばいいのか。つまり、10の力があったら英:独:伊:西:中=4:1:1:2:2くらいか。)

したがって、英語に重点を置きつつ広く浅く言語に当たって、ある程度文を作れる程度までは話せるようにしておきたいところだと思う。不要かどうか以前の問題で、やっておくに越したことはないのだ。いずれにせよやっておかなければ意味はないので、行動するべきだ。

とりあえず主張はこんなもんだが、蛇足を入れると、英語の文法は果たしてどうなのかという話。

英語はドイツ語派であり、文構造なんかはドイツ語、オランダ語に近いという。どちらにも「第1、2、3、4格」があり、男女名詞などがあるわけだが、英語はそれらが消えた。つまり簡略化が起きているのだが、その分音も飛んだため、黙字というのが出てきた。(ちなみにこのせいで英語圏にはディスレクシアが多いと言われる。逆に文字と音が一致するイタリア語には少ない)しかし、この簡略化のせいで一部簡略化されずに残ったワケワカランのが、まさしく三人称単数現在形のs(ドイツ語だと全部活用しますでしょ)などである。これらは思うに、背景から理解しないと結構厳しいのではないかと思っているところで、したがって英語は結構特殊だということだ。他言語に応用しづらい。(語法とかは他言語と似通うと思われるので逃げ道にはならないが)

昨今は語源で覚える系のものや英語史が小ブームなのかは知らないが、そういう点に着目すると面白いと思う。

高速バス事情

さて、私の旅行の交通機関といったら高速バスがメインでございます。(最近は船も使いますがね。でも船は航路がきわめて限られているので、使えたら使うくらいの認識です。)そういうわけで高速バス事情について解説と考察をします。

0.About 高速バス

①概説:高速バスとは路線バスと区別される(が、実際どうなのかというと微妙…というのも、高速バスも一定のルートを走る点では一種の路線バスということもできるが、ターミナル間の2点だけを結ぶという点で大きく異なっていると思う)。かつては大きくツアーバス系、高速乗合バス系に分けられ、前者の方は値段が安い傾向にあった。しかしその分安全性に疑問がもたれていたことも事実(例えば過労など)であり、実際藤岡IC付近における事故などはまさにそうであったことなどから、その事故を機に高速乗合バスへの一本化が進められ、結果として中小バス会社というのは淘汰される結果となっている。現在ではそこそこの安全性が確保された(完全とは言えないまでも、それこそ高速道路は貰い事故などというのも往往にしてあり得るが)と考えることができるであろう。(個人的には一番安全と思われる徒歩でも車が突っ込んでくるなどの事故というのはあるわけだから、完全な安全はないと割り切ってしまっているが)最近では疲労度計なるものを導入する会社があったり、2人以上の乗務員がいるなどということもある。

さて、高速バスを使うにはどうするかというと、まずは予約が必要(当日空きがあれば乗車可能という場合もある)である。しかし、高速バスの値段というのはピンキリ、それこそ東京〜大阪を¥1500で行けるものもあれば¥9000以上払わねばならないものもある(といっても新幹線や航空機より安いのが常だが)。そこで、高速バスの比較サイトを利用すると良い。そこから直接予約も可能である。

②バスの種類:種類といっても基本はどの会社も同じなのでまとめて解説する。これ以降「グレード」と表すことにする。

⑴四列シート:普通の大型バスの椅子。東京〜大阪で最安¥1500など、長距離の移動に関して価格破壊を引き起こした。貧乏人の友とも言える一方、長時間では隣が大きい人などするときついものがある。実体験では、隣が太ましい人だったために眠りづらかったり、いびきがうるさかったり、あるいは盗難が不安だったり(といっても今まで遭ったことないが)といろいろある。

⑵四列ゆったり:⑴から1、2列減らすことで座席間隔を確保したもの。⑴が概ね11列であるのに対し、⑵は9、10列が多く、横幅も確保されていることが多い。⑴よりは高いが¥1000程度の差なので、最近私はこっちを利用することが多い。特に肘掛けがしっかりあるのとないのとではかなり違うと思う。

⑶3列シート:横3列。1-2型(2-1)や1-1-1(独立)があり、前者は1列の席と2列の席に分かれている。後者は1列の席がそれぞれ通路を挟んで並んで3列というものである。これらは明らかにプライバシーの確保、快適性という面では⑴、⑵を上回る。しかし値段が少々張る一方で、稀にヘタに⑴⑵を選ぶときより安い場合もあるので、その辺りの吟味というのは強く求められると思う。

⑷2列シート:横に2列、個室になっている場合も多い。最高級グレードと言えるだろう。プライバシーや快適性は最高である。その分値段も張り、¥10000〜というのがスタンダードといえる。

その他、willerは⑴〜⑷をベースに顔のあたりにかけるカバーをつけるなど、独自性を発揮していることもあり、また、⑵⑶を前後で組み合わせたバスも存在する。ほかには充電設備がついたものもあり、携帯電話程度ならば充電できるものもある。

③会社に関して:会社といってもいろいろあるので、私が今まで利用したことがあるところと有名どころを紹介する。

⑴JRバス:言わずと知れたJRが運営するバス。やや高いが、安全性や信頼などは高いと考える人も多い。「青春ドリーム号」なるものは安価だが、しかし⑵以降の方のより良いグレードの方が安いことも多い。一方で、よく調べると、早期予約特典的な感じで他の会社より高いグレードが安いこともあるので、その辺りの吟味は必要である。

WILLER EXPRESS:言わずと知れた大手バス会社。ちなみに北近畿タンゴ鉄道も運営する。それはさておき、②で述べたように普通のバスにちょっと手の込んだ加工をして独自性を追求している。梅田に独自のバスターミナルを構える。

平成エンタープライズ(VIPライナー):VIPラウンジを京都、名古屋などに構え、待合所も兼ねている。休憩や着替えなどに利用できるのが魅力的。

オリオンバス:星をあしらったキャラクターが側面にデカデカと描かれている。東京ー福岡の超長距離便を運行していることなどの特徴がある。対抗相手は西鉄バスはかた号など。

⑸さくら観光:側面にさくらがあしらわれたものや、キラキラ号などを運行する。キラキラ号は赤い車体に犬猫のイラストがあしらわれた、とりあえず派手なので間違えない。

⑹その他:各地方の私鉄系のバスなど。特に特徴的な会社を挙げる。

弘南バス:東京ー青森のパンダ号やスカイ号を運行。

西鉄バス:東京ー福岡のはかた号を運行。

④バスターミナル関係:以下に挙げるバスターミナルのほかに、各県の中心駅付近にも小さいながらもバス停がある。

1.関東

バスタ新宿:新宿駅南口(とルミネ)に隣接する、言わずと知れた東京の大バスターミナル。コンビニは中にあるが極めて混雑する。従って必要物品は別のところを探して買うのが良い。新宿なので少し探せばある。待合室もかなり混雑し、座れない場合があるので、どこかで時間つぶしをしておくといい。紀伊国屋などは21時くらいまでやっているし、新宿に鎮座するSuicaペンギンを崇め奉るなどすると良いだろう。

⑵鍛冶橋駐車場:東京駅八重洲口を有楽町駅の方向に行くとある。こちらも東京の大バスターミナルといえよう。こちらの場合コンビニは近くのフォーシーズンズホテルの地下や、有楽町方面にある。また、やはり有楽町が近いこともあり、必要物品は有楽町に出ればいろいろ入手でき、また、八重洲ブックセンター丸善(ただしこちらは丸の内のしかも神田寄りでやや遠い)などもあり、時間つぶしができる。というのは、鍛冶橋駐車場の待合所は極めて狭いためである。しかし壁際には充電設備があるので、利用したい場合は張り付くと良い。

⑶横浜シティエアターミナル(YCAT):横浜駅東口にあり、日中は羽田空港や成田空港に行くリムジンバスが発着するが、夜中は高速バス停留所になっている。⑴⑵に比するとやや小規模ではあるが、しかしやはり本数は多い。東口にあるため、早朝深夜は営業している店舗を探すのは難しく、西口まで歩く必要があるだろう。しかし、日中の賑わいとは全く趣の異なる横浜駅も見られる点では面白い。

2.関西

⑴梅田モータープール:関西の大ターミナルといえよう。阪急梅田駅からの高架を左に見ながら、梅田芸術劇場があったらその目の前にある。待合室が屋根だけと、よくいうと質素、悪くいうとショボいので梅田(大阪駅)周辺で時間を潰すなどしなければならないと思う。ちなみにWILLERは少し離れたところに専用ラウンジがある。

⑵大阪シティエアターミナル(OCAT):JR難波駅に直結。使ったことないので正直よくわからない。

⑶京都駅八条口バスターミナル:京都のバスターミナルと言ったら大体ここになる。京都駅の表側(烏丸口京都タワーなどがある方)ではなく、伏見や東寺の類がある裏側の方で、近鉄がある方である。待合室はないが、付近は京都駅、あるいはイオンもあるのでなんとかなるだろうとは思う。ちなみにVIPライナーはイオンの近くにVIPラウンジを構え、そこから発着する。

⑤その他

バスに乗る際には注意点が少々あるので紹介しておく。

・時間に遅れない:まあもちろんと言ったところだが、要するに鉄道などと同じと考えるべき。これに絡んだ妙な乗客トラブルもあるが、その当事者にならないようにすることも重要である。また、トイレ休憩で乗り遅れることもある。注意があるように、「乗り遅れたら出発する」ので、どこかわからない謎の場所においていかれたら悲惨である。心して気をつけなければならない。

・夜の過ごし方:大きな音を立てる、異臭を放つなどは厳禁。私が乗っていたら外に放り投げるレベル。

ところで、バスでは眠りにくいということがあるが、経験上なぜかを考えると、まず姿勢がきついのだろう。それが9割、残りは窓から差し込む光だろう。後者はアイマスクをすれば済む。問題は前者で、恐らく腰や首が痛くなる。従って、ネックピローや腰に当てる小さいクッションをおくとよい。また、下半身が蒸れることも考えられ、このため下着などを取り出せる準備をしておくといい。

さて、このようにややきついところもあるが、上手く使いこなせれば究極のケチ旅行、週末宿なし0泊3日も十分可能なので、旅行の際は考慮してみるといい。

 

 

クラシックを推す ①

旅行だけだと思ったら大間違い、クラオタもしてますんで推します。

さて、クラシックといってもピンからキリまである上に人ひとりとってもやはりピンキリときたもんだというわけで、有名か否かを問わずに上げるコーナーでございます。多分説明(という名前の薀蓄)は間違っているところが多々あるので、作業用BGM置き場としてご活用いただければ幸いです。

グレゴリオ聖歌

https://m.youtube.com/watch?v=p_shhU_H5Z0

さて、いわゆるクラシックとかいうのはグレゴリオ聖歌に端を発するとかよく言われますが、実際グレゴリオ聖歌ができたのは600年くらいであるため、果たしてそこのところはどうなのかと思いますけれども、そういうわけです。グレゴリオ聖歌の頃というのは純粋に合唱、つまり歌だけのモノフォニー(単旋律)の曲で、現在からすると極めてシンプルに見えますが、実際バイオリンなどはなかった時代だから妥当ではあると思います。個人的には流れてきたらボケーっと聞く程度ですが、落ち着きますね。

ジョスカン・デ・プレアヴェ・マリア

https://m.youtube.com/watch?v=LUAgAF4Khmg

時代は一気に下りまして、ルネサンスの時代です。ここまで何もなかったのかというと、多少は何かあったのかもしれません(民謡とかその辺)が、私が知っているのがないというだけです。ごめんなさい。

さて、このころはまだ「音楽」というとキリスト教のイメージが強いわけで、しかもバイオリンなどの発明(あるいは改良)もされていない時代であるため、声楽が中心です。しかし、グレゴリオ聖歌がモノフォニー(単一旋律、声部が分かれない合唱)であったのに対し、900〜1000年ごろからポリフォニー(複数旋律、つまりは合唱で、声部が分かれる)が発生し、ルネサンスの頃に声楽でこれがピークを迎えます。

さて、ジョスカン・デ・プレとはフランスのルネサンスの作曲家です。聞けばわかりますが、ゴリゴリの対位法が駆使されています。つまりモノフォニーが出来上がっているということで、声の響きの調和がとても心地よいものです。

オケゲム「清純なる聖母」

https://m.youtube.com/watch?v=cXQdhks3gdY

ジョスカン・デ・プレと同じくらいの時代の作曲家、フランドル楽派の一人であるオケゲムです。ジョスカン・デ・プレの師匠だったとかなんとか言います。

ジョスカン・デ・プレオケゲムもあまり詳しいことがわかっていません(し、私もわからない)ので曲紹介というだけでございます。

④リュリ「クラヴサン組曲

https://m.youtube.com/watch?v=l7sfbZqO_bM

やってまいりました、バロックの時代でございます。美術史と一致しているのか、あるいは少し遅れているのかというのは定かではないですが、まずバッハの少し前のフランス(イタリアから帰化)のジャン・バティスト・リュリの曲を挙げてみます。

リュリは太陽王ルイ14世の宮廷音楽家として有名です。それ以上に有名なのは、指揮棒(ただし当時は杖みたいなものを床に突くことで指揮をしていた)でつま先を誤って突き、そこから化膿して亡くなったとかいう話ですが、それは置いておきましょう。

さて、この曲に関してはあまりにも渋いので、youtubeを漁るのに少し苦労しましたが、よく考えたら音楽悲劇で有名なのでそちらをあげればよかったが、高尚すぎるというわけであえて出しません。一応述べておくと、音楽悲劇はそのままオペラの原型のようなものと考えていただければそれでよろしいかと思います。映画のアマデウス見ればわかりますが、実際モーツァルトの頃まで「オペラは高尚」という印象は残っていたようです。

さて、このクラヴサン組曲というのはなんぞやというと、ピアノでバロックの方向進んだ渋い人なら、「バロック曲集」みたいなものの中によくまばらに入っているやつです。この頃にクラヴサン(チェンバロ、今のピアノにつながる)が出始めたため、その流行に乗ったものと考えられます。

⑤バッハ「ヨハネ受難曲

https://m.youtube.com/watch?v=QbVTxRicMGM

バロックといえばバッハは外せないと言われます。バッハの受難曲に関して申し上げますと、バッハは有名なヨハネ・マタイ以外にもマルコ、ルカの計4つ作っていたとか言いますが、後者2つは散逸しています。また、マタイ受難曲に関しても2曲作られたと言われていますが、おそらく現存していないと考えられています。それにしてもバッハのマタイ受難曲はバッハの死後は忘れられていたようで、1829年メンデルスゾーンが復活公演なるものをやって現在の名曲として残っているのです。

さて、受難曲とはなんぞやと言いますと、新約聖書のマタイ、マルコ、ルカ、ヨハネの各福音書のうち、イエスの受難(裁判で処刑宣告を受けてから処刑まで)の場面を描いたところを曲として表現したものです。この形式自体はバッハ以前からありますが、今最も有名なのがバッハだということで今回あげたわけです。

さて、バッハの説明は不要だと思います。後でもう一つ出しますが、バッハの時代にやっと声楽のポリフォニーから器楽系ポリフォニーが出来てきます。また、宗教曲もあるにはあるものの、クラシック音楽の世俗化も進んできたと言えるでしょう。

⑥バッハ「バイオリン・パルティータ 2番」

https://m.youtube.com/watch?v=lpe7thXd69E

さて、先述の通りバイオリンはルネサンス期にはなかったものの、1500年ごろに発明され、この頃はかなり出回っていたものと思われます。バッハはそこでバイオリンのための曲をいくつか書いています。バイオリン・パルティータ2番は終曲のシャコンヌが極めて有名です。ピアノ関係でいくと、20世紀に入ってブゾーニが編曲したり、それ以前にブラームスが左手のための曲として編曲していたりもしますが、吹奏楽でも有名だと思います。個人的な考えですが、バロックの長い曲は力が入っている分、傑作が多いと思うところです。

コレッリ「バイオリン・ソナタから 12番」

https://m.youtube.com/watch?v=cBoAmQl2Kgc

バロックの人ではコレッリもあげてみたいと思います。コレッリは特にバイオリンで有名な人で、バイオリン関係の曲を多く残しています。さて、バイオリンソナタ(Op.5)からは12番を引っ張ってきたのはなぜかというと、やはり長い傑作というのもありますが、この曲だけコレッリとしては有名だということもあります。ラフマニノフが「コレッリの主題による変奏曲」を書いていますが、コレッリが作曲者ではなく曲だという誤解が広まっていたということも事実です。さて、コレッリの他の曲だと合奏協奏曲なども有名です。

⑧ヴィヴァルディ「調和の霊感」

https://m.youtube.com/watch?v=SY3Kxf7ZTeI

ヴィヴァルディといえば「四季」が有名ですが、あえてこれを選んだ理由というのはもちろんあり、この曲はバッハが4台のピアノ(あるいはクラヴィーア)と協奏曲用に編曲しているということです。

参考:https://m.youtube.com/watch?v=tJ49G2-Chhs

バロックでは著作権という概念なんかないので、編曲などがよく行われていたということが伺えます。

ヘンデル「水上の音楽」

https://m.youtube.com/watch?v=EXfuA9zjv7M

バロックといえばもう一人、ヘンデルも有名です。メサイアなんか有名ですし、サラバンドもカッコいいと思いますが、一方でこちらはイギリスの宮廷音楽家だったこともあり、特に「水上の音楽」はロンドンのテムズ川上で行われたとされる音楽会かなんかでジョージ1世に披露されたと言われる曲です。ちなみにジョージ1世はハノーヴァー選帝侯であり、従ってハノーヴァー朝がはじまり現在も続くウィンザー朝になったというところがありますが、ヘンデルは実はもともとハノーヴァー選帝侯の宮廷楽長だったところ、ジョージ1世とくっついて行ったらイギリスに帰化したという割と妙な経歴を持っています。

よく言われるのはバッハが「音楽の父」ならヘンデルは「音楽の母」ということですが、あまりよくわかりません。

⑩バッハ 「カンタータ208番」

https://m.youtube.com/watch?v=yc_btdk-_d4

さて、〜バロック編の最後はバッハのカンタータのうち最も有名なので締めましょう。いわゆる「狩のカンタータ」とか言われますが、ドイツチックで面白いと思います。「羊は柔らかに草を食み」なんていうアリアもありますが、牧歌的で穏やかな感じがするので有名な部分です。

バッハのカンタータは無駄にいっぱいあるのでちびちび聞いてみるといいと思います。

 

以上、〜バロック編でした。バロックだと有名どころももちろん割と渋いところにも足を突っ込んでみると面白いと思います。

ひねくれた考えの煮こごり② 〜マナー〜

連載ではないです。よくマナー講師なんとかが本当にどうでもいいマナーなるものを(きっと利益のために)広めようとしていると思われますが、どうでもいい見解を申し上げます。

さて、マナーというのはそもそもどういうものなのかということから見直してみたい。マナーというのは要するにお作法、つまり見ている(あるいは行動を受ける)側が不快にならないような行動をいうわけだが、結局されて快感を覚えるかどうかなんか人によりけり、あくまで自分自身の教養に基づいて相手の気持ちを推量するのがいいところで、決して人に強要するものでも共用されているものでもないはずなのだ。臨機応変一人一人の状態に合わせたマナーというのが求められるべきで、マナーには合理的な理由があり、だからこそそれとともに教わるものだと私が勝手に思っているのだけども、いわゆるマナー講師のいう「マナー」はそういうのを画一化し、しかも大概無駄なものである点でどうかと思われるところだ。

マナーの一例として、ハンコを押すマナーなるものがある。有名な話だが一応説明すると、「上司には低頭になるようなハンコを押せ」つまり斜めにしろというのだ。実に馬鹿馬鹿しいこと限りないものだで、意味のないものだと思う。マナーは規定すればいいというものではないと思うし、しかも強要されるものではないという点で、これはいかに無駄なことかといえよう。ただ手間がかかるだけだ。「儒教的」な面、しかも曲解されにされて「とりあえず人を敬え」みたいな面があると思うが、しかしお互い「儒教的」考え方を持っていればそんなことしなくてもいいはずなのではと思うのだが。

イカニモ」それっぽい感じで言われるからみんな信じてきっとあるものだと思ってしまうのだろう。しかし、そんなもの時代と地域が変わったらむしろ迷惑限りないものであるということがあり得るかも知れない。それがまさに蕎麦の話である。音を立ててすするといいと言われている蕎麦だが、例えばスパゲッティなんかはフォークで丸めてから、塊状にして食べるわけで音を立てないし、そもそも音を立てる食い方なんかしたら服が汚れてしまうという合理的な理由がある。一方で蕎麦をすすって食べる場合は、すすることで音、空気を一緒に口に含んでより美味しくなるという、嘘くさく感覚的だがそこそこ合理的な理由がある。

この「合理的」というのがマナーの重要な点でもあるというのは先ほど述べた通りで、よく言われるレストランでのフォークとナイフの置き方、これはやはり給仕の人が皿を持ち運びしやすいように、食べ終わったら皿の中に入れてしまうわけだし、あるいは席を一時立つ場合に両端に置いておくのは見栄えやマナーという観点よりも、戻ってきてすぐに食べられるようにという理由から生じたものであると考えることが自然だ。

つまり、マナーは心理・相対的な根拠も確かにあるかもしれないが、それよりも行動・絶対的な根拠がまず先にあるものなのだ。そこから派生して、やや飾りのようにその合理的所作が「美しい」というように認められてきたというものであると考える。しかし、マナー講師の教える「マナー」というのは、全く合理性がなく、せいぜい心理的に気持ちがいいという、どこでも変わりうるような相対的根拠にだけ基づいた全く意味のないマナーであるということを主張しておきたいのだ。

 

ひねくれた考えの煮っころがし ①〜ヴィーガン〜

ニュースだのその他諸々を見て思うことを書き転がしていきます。ただの所感なので無知もあってひねくれた考え方ばかりしているのでご承知おきを。

 

菜食主義者ベジタリアンというのがいます。別にベジタリアンが悪いというわけではないんです。なぜならば、野菜は体に良いと考えられるからで、そのような健康面における菜食主義というのは別になんともありません。個人の勝手だ。いわゆる極端な菜食主義者、いわゆるヴィーガンというのはまた別の話です。一部の宗教においては肉食の厳禁を教義としてあるところがありますけれども、それはまあ別としますよ、炎上めんどくさいので。それにしても勝手にやっている分にはなんでもない訳ですが、しかしそういった宗教ではないけれども、一種のヴィーガニズムの信仰というので私が思ってしまうのはまず第一に主張が根拠薄弱といった所です。

いわゆる人工と自然ってのは対立した概念だと思われているところですが、しかし人工といえど、例えば狩りによって得た獲物というのは果たして「自然」なのではないかと思うのです。つまり人間が狩ることによって自然が保たれる、すなわち人間が食物連鎖の一部にあるということです。その点からすると「自然を守るための」ヴィーガンというのは本当なのか疑問があるところです。

もう一つ、最もよく言われるところですが、「家畜を殺すのは非人道的だ」というところです。たしかに家畜も一つの生命、我々と同じ命を持っているのです。私もそこには共感します。しかし考えるべきは、その家畜ははっきり言ってしまうと「殺されるために生まれてきた」と言えるということです。その生まれてきた目的を否定することは果たして人道的と言えるのか?しかしきっと「殺される方が非人道的だろう」と考えるのも多いだろうからそこで一つ物申すと、ではなぜ「すでに殺された後の肉を食べない」という全く筋の通らない行動をするのかということです。殺されていれば意味ないだろうにと常に思うんですが、だったら自分らが屠殺場の廃止禁止を呼びかけるくらいしても良いのではないかと思うんですが、しかしそれをされると私みたいな肉食肯定論者が全力で反論しにかかるので結局意味がないことでしょう。

さらにこれに関してもよく言われますが、「人間と同じように家畜も命を持っている、だから植物を食べよう」というのも実に筋が通らない話です。どっちも生物ではないのでしょうかね。生物は命を持っているのです。それは植物も動物も全く変わらないはずなのですがね。ヴィーガニズム信者というのは、命の差別を無くそうとしているように見えて実は強烈な差別を行なっているのです。その点我々肉食を肯定する人というのは、食肉にしろ植物にしろ等しく食べるわけで、差別というのはないのです。「人間と家畜の命の差別であって植物と家畜ではない」とかいう反論は全く一笑に付されるべき問題で、なぜならばそもそも「物を食べる」時点で命をいただいていることは全く変わりがないからです。それでも反論を通そうというのであればなんかのウイルスだの鉄だのでも食ってろというべきかもしれませんな。要するに馬鹿馬鹿しいのです。

 

お題から

今週のお題「平成を振り返る」に基づきまして考えます。

私は平成生まれ(何年とは言わんが)で、思い出も何もいままで平成と生きてきたわけだから、平成が人生であると、そういうわけです。すなわち、平成を振り返ることは人生を振り返るということを意味しますので、自分語りをすることになります。

さて、私と同年代というのはちょうど20世紀と21世紀の間の世代で、(っていうとばれるがね)実は私はぎりぎり21世紀生まれです。したがって20世紀というのを知らないわけです。20世紀といいますとすでに「歴史」の中で出てくる世代に当たります。しかし、そんな20世紀、時代は明治、大正、昭和、平成の4元号がながれ、そしてその100年間に時代は大きく変わっていった、そんなことは目に見えていますが、しかし私が思うのは平成の、たった(?)30年、の間でもじつは大きく変わっているということです。平成元年では、果たして我々の誰もがこうしてパソコンやiPhoneをもち、どこでもインターネットが使えるという状態を想像できたことでしょうか。実はそこは私も結構思うところで、少なくとも私が小学生のころ、つまりは10年位前、ニンテンドーDSiのころでしょうか、wifiコネクションなるものがあったわけで、当時の私は「なんぞこれ」などと思っていたものです。当時もインターネット自体はそこそこ普及していた(ただし有線)と思いますが、しかしここでいうように無線LANというのはやはり一部にしかないものであったと思います(マ●ドなどにはあったけどね)。しかしそれから10年、無線LANは当たり前のものとなるばかりか、そんなのなくても3G,4G回線などが出現して、街中どこからでもiPhoneの類を通してすぐに調べたいことが調べられるようになった、そういうことは(まだガキンチョだったからわからなかっただけかもしれんが)思いもしなかったわけです。(これも多分携帯電話は前々からインターネットにつながることを知らなかった私がガキンチョだっただけかも知らんが)

ここに関して私はしばらく前から思っていることを述べさせてもらいますけども、ここも私のガキンチョだった時分の補正がかかっているともいえるかもしれないことはあらかじめ断っておくとして、2010年代、特に2011年には日本社会が大きく変動したような気はしていますが、果たしていかがなんでしょうか。インターネットもそれ以降急速に普及した気がするのですがね、ただ世間知らずなのか記憶違いなのかもしれませんけども。それにしても何かしら転機になったことは相違ないと思われます。

さて、ここまでインターネットの発展のことしか述べておりませんが、それ以外で平成を振り返ってみたいと思います(歴史的観点ね)

長い長い激動の昭和、それはクーデターもあり、戦争もあり、そして戦後の経済の急成長があり、そんななか時代の歪みも多々おきた、そんな時代でした。1989年、その昭和が終わり、平和なままで平成になったのち、日本国内は概ね平和であった(といってもサリン事件などがありましたけどね)と言えるでしょう。一方で災害も、特に都市部におけるものが多かったといえるかもしれません。阪神淡路大震災岩手県内陸地震東北地方太平洋沖地震、あるいは豪雨災害などが多くなった時代でもありましょう。防災意識が高まった時代でした。そういう点で、復興を願うと共に、防ぐことはできないまでも、被害を最小限にする努力は日々行われるべきであると思います。

新しく迎える令和の時代、私が求めたいことがいくらかありますが、一つは平和を希求すること、一つは健康でいること、一つは社会の変革、一つはさまざまな分野の発展発達です。急激にではなく、緩やかに行われるべきで、そのような発展を日本に期待しつつ締めと致します。

 

生きる目的とは

twitterで最多得票を得たうちの片方「生きる目的」に関して考えてみたいと思います。テキトーに思っていることをテキトーに書き繕っているだけなのでおかしくても気にしないでね。

まずは「目的」というものの性質を考えてみます。例えば、「ガラナを飲む」という目的(というのか欲求というのか)を仮定しましょう。ガラナを飲むという目的のためには、まず「ガラナを買う」という行動の達成が必要です。そしてその目的のためには「セコマに行く」「北海道フェアに行く」「北海道のスーパーに行く」の類の目的(いわば手段)が生まれ、無論そのために「金を得る」という目的が生まれ…と、目的というのは1つの目的の達成のために生み出されるもの(これは手段ともいえる)であるといえます。

さて、では「生きる目的」とは何かを考えてみましょう。端的に言うと、「死ぬため」であると思われます。綺麗ごとなんか言いませんよ、それが人間、ひいては生命が行き着く先であり、それこそこの世に生を受けた以上必然として訪れるものだからです。しかし、これは果たして「目的」と言っていいのか?これに関して考えると、実は先ほど述べた「目的」とは性質が明らかに異なります。前者は能動的(生きている我々)によって決定されるものに対し、後者は受動、しかも強制的に決められているのです。したがって生きる目的を「死ぬため」と足早に決めつけるのは微妙なところといえます。

別の角度から異論を提示してみましょう。異論ということはさまざまに考えることができます。つまり、「金持ちになるため」「後世に名を残すため」etc...といえるものですが、それに則って私の好きな説で考えてみたいと思います。いわゆる「水槽の脳」説というのがあります。これは、この世界は培養液かなんかに浸された「私」(の感情思考その他もろもろを持つ何か、すると別に脳でなくてもいい気はするけどね)が、いわばバーチャル・リアリティ的に、電位信号で様々なものを知覚している世界であるというもので、私が勝手にそこから話を発展させると早い話、この世界は幻想(あるいは夢)だということです。考えてみていただきたいのは、我々が今生きている世界は果たして「現実」なのか?いや、我々がいて、こんなくだらなくつまらねぇ文章を飽き飽きしながらも読んでいる時点で現実だ、なんて言えるでしょうけれども、それも電気信号かなんかで見せられているだけの仮想かもしれません。…というといわゆる電波系と思われるかもしれないが、そもそもこの世界が「存在する」というのは先験的なもの(ア・プリオリなんていうらしいが)といえるのか?つまりはこの世界を知覚し、認識している我々がいなかったらこの世界はなかったのではないか、と私は勝手に思っているところです。実に自己中心的(よく言うと独我論とかいうらしい)考え方ですけどね。ところで、そもそもこの世界を先験的なものにしておかないとこの世界のあらゆる話は成り立たないといえることになるかもしれないが、先験的である証明ってできますかね?例えば「歴史」、これも、そういう事実があったというバーチャル・リアリティを見せられているだけで、実際今ここに生きる私の本質的なもの(水槽の脳)は存在を知りえないのではないかということができるかもしれない。

さて、延々と述べたが、私の「生きる目的」は端的にいうと「楽しむため」である。なーんだそんなことかと思うかもしれないが、上にテキトーに書き繕ったものからわかる通り、我々がこの世界に生まれ、この世界で暮らしているという理由なんかはっきり言ってわからんのです。因果を超越したそれこそ神の思し召しである、というと言い過ぎになるが、それこそ「現実」というバーチャル・リアリティを毎日やっているわけで、そんでもって最終的に「死ぬ」という真理があるわけです。したがってそんなの忘れてなんでも楽しんで生きなければもったいないというわけである。