とあるツイ廃のブログ

ツイ廃が140文字で抑えきれないなにかをただかきつくるもの

今更旅行記-①奈良・京都-⑴奈良編

時は2017年10月、初めて行った一人旅は京都・奈良でした。国宝展を京都国立博物館でやっているというので、「そうだ、京都行こう」という軽いノリと勢いと割と熱い(?)想いをもって行ってまいりました。基本的に0泊3日という特殊形態であるため、旅行会社というのは介しません。

さて、まず行程について申し上げます。1日目、この時だけは実は大宮から高速バスで行きました。きっついバスで¥6000くらいしましたね、高かったことだけはよく覚えています。夜に出発して1日目終了

2日目には京都駅に到着しました。朝早いので、無論京都の寺院なんかやっているわけないので、近鉄で奈良に行ったわけです。その後京都に戻って夜まで時間を潰し、大宮に戻ります。

3日目の早朝に大宮駅に到着しました。綺麗で爽やかな朝だった記憶があります。

さて、以下は見物の詳細を申し上げます。写真はまだヘタクソだったので逆光が多めですがご了承ください。

f:id:unknownhuman12340:20190216235354j:image興福寺

興福寺というと、奈良時代から続く藤原氏の氏寺、また、いわゆる南都七大寺と呼ばれる奈良の大寺院の一つのも数えられます。平安時代においては比叡山延暦寺と並んで「南都北嶺」、また、一乗院と大乗院が置かれ、門跡寺院(皇族が入門する寺院。京都では八橋とかで有名な聖護院など。また、室町時代において門跡が『大乗院寺社雑事記』は応仁の乱の史料、また、大乗院の日記類を整理した『大乗院日記目録』が門跡の尋尊によって著され、現在の正長の土一揆などの史料となっている)となりました。源平合戦のころには、平重衡による南都焼討で東大寺とともに焼き討ちに遇いましたが、後述の通り全く力が衰えることはなかったのです。

中世においては「奈良法師」と呼ばれる僧兵(同様の組織に比叡山の「山法師」がある)がいたことでも知られております。また、このような大きな権力から、鎌倉・室町幕府興福寺の位置する大和国には守護を置くことができず、実質的な守護として興福寺が担っていたほどです。

時代は降って明治時代、流石にこの時代の西洋化の流れには抗えず、廃仏毀釈によって写真の五重塔などは極めて安価に売り払われそうになりましたが、なんとか残っております。それ以外にもこの影響としては大きく、寺社の範囲の縮小もありました。この付近には春日大社があり、これと合わせて信仰されていた興福寺は、神道の国教化の流れで分けられ春日大社より格下のものとされました。付近の奈良ホテル奈良公園があり、これらはもともと興福寺境内であったものが廃仏毀釈で土地が売り払われたためこのような位置にあるのです。

現在、中金堂がちょうど落慶したてで、一昨年行った当時はまさに工事中でした。そのため、興福寺の有名な八部衆、特に阿修羅像は工事の前にある仮説の建物で拝観できましたが、現在はどうなっているかは行っていないので存じ上げません。

f:id:unknownhuman12340:20190216235436j:imagef:id:unknownhuman12340:20190217001947j:imagef:id:unknownhuman12340:20190217001954j:image

東大寺

1枚目は言わずと知れた南大門、その下二枚は有名な阿形と吽形(金剛力士像)です。現在の南大門は東大寺勧進職にあった重源が、南都焼討で綺麗さっぱり焼き払われた東大寺の再建しましたが、それに際し宋の建築様式を取り入れた大仏様で建築されています。また、その中に金剛力士像があります。写真をよく見ていただければわかりますが、上の像は口を「ん」の形で結ぶ吽形、下の像は「あ」の形で開いているので阿形といいます。これらは鎌倉時代の運慶と快慶の合作で、寄木造(つまりパーツで分割し、合わせることで1つの像を作る)で作られ、武士文化の強壮な印象がよく表れているものと評されます。

さて、東大寺について申し上げます。東大寺というのは、聖武天皇国分寺建立の詔により大和国国分寺、また、大仏建立の詔によって盧遮那仏像がつくられました。開眼供養会においては聖武天皇太上天皇で、元正天皇のもと、インドの菩提僊那が開眼を行なったとされます。ここも興福寺と並んで南都七大寺に数えられる大寺でした。

時代は下って南都焼討においては東大寺も焼かれました。しかし、先ほどの重源が勧進職に就き、東大寺造営の資金を集め、宋の工人・陳和卿によって大仏殿や大仏が再建されました。

戦国時代においては三好義継+松永久秀三好三人衆三好三人衆+筒井順慶(大和郡山城が居城)らの東大寺大仏殿の戦いにより再び焼かれましたが、江戸時代に、大きさは天平時代から縮小されましたが再建され、現在に至ります。