とあるツイ廃のブログ

ツイ廃が140文字で抑えきれないなにかをただかきつくるもの

今更旅行記-③平泉

平泉でございます。平泉と言いますと奥州藤原氏の拠点として、平安時代後期には大勢力だったのは有名ですが、江戸時代には松尾芭蕉が『奥の細道』の道中で訪れたところでも有名です。

行程は1日目夜発-2日目朝一ノ関駅着-平泉-盛岡-夜盛岡発-3日目朝着でした。

平泉駅からまずは例によって徒歩で、達谷窟まで参りました。f:id:unknownhuman12340:20190218184319j:image達谷窟毘沙門堂が岩の中に食い込んで作られているというので有名です。この毘沙門堂は、平安時代初期の征夷大将軍坂上田村麻呂蝦夷討伐を記念して作られたもので、こののちに朝廷側はさらに北上し、少し北の奥州市にある胆沢城や、盛岡市の志波城に拠点を移しました。ところで、その隣の大仏の彫刻もまた面白く、弓矢によって作られたとかいう逸話があります。
f:id:unknownhuman12340:20190218184326j:imagef:id:unknownhuman12340:20190218190334j:imageさて、そのあと参りましたのは毛越寺です。f:id:unknownhuman12340:20190218184644j:imagef:id:unknownhuman12340:20190218184706j:image

浄土式庭園が有名ですね。平安時代の後期から浄土信仰が盛んに行われ、同様の庭園では平等院の庭園などは有名ですが、ここも今でこそ建物は失われていますが、さぞや大規模なものだったことでしょう。

このあとは平泉でメインの建築と目される中尊寺に向かいました。f:id:unknownhuman12340:20190218185126j:image
f:id:unknownhuman12340:20190218185121j:image
f:id:unknownhuman12340:20190218185130j:image

鞘堂内部は撮影禁止なので外からのしかありませんが、紅葉と残雪があって実に面白い光景でした。メインの金色堂には藤原三代のミイラ(清衡・秀衡・泰衡)が納められていますが、それにしても豪華絢爛な造りです。『奥の細道』では「かねて耳驚かしたる二堂開帳す。経堂は三将の像を残し、光堂は三代の棺を納め、三尊の仏を安置す。七宝散りうせて、珠の扉風に破れ、金の柱霜雪に朽ちて、既に頽廃空虚のくさむらとなるべきを、四面新たに囲みて、甍を覆ひて風雨をしのぐ。しばらく千歳の記念とはなれり。   五月雨や降り残してや光堂」という極めて有名な章で言及されております。現在はこの当時の鞘堂ではありませんが、中の様子は全く変わらないものであろうと思われます。五月雨ではなく残雪の雪解け水が垂れてきましたが、これもまた一つ風情がありましょう。

さて、こののちにお昼ご飯にわんこそば…じゃない(無知なもんで、腹がはちきれるまで大量に出されるというもんだと思ってました)お蕎麦

f:id:unknownhuman12340:20190218190633j:imageを頂きまして、そのあと参りましたのは高館とか衣川館とか呼ばれるところです。f:id:unknownhuman12340:20190218190708j:imagef:id:unknownhuman12340:20190218190716j:imageここも『奥の細道』で言及されているところですが、それよりも源義経の最期の地としても知られています。さて、ここで義経について申し上げておきましょう。源義経は、ここ平泉と奥州藤原氏に縁が深く、幼少期は奥州で育つなどしていました。中央で全盛期を迎えた平氏(「平家にあらずんば人にあらず」のように)に対して、以仁王の令旨に呼応した、伊豆の源頼朝やその弟の範頼、木曽源氏の源義仲などが一斉に挙兵し、平家の没落のカウントダウンが開始されたのです。(これをその元号をとって治承寿永の乱と言う)このあたりの話は『平家物語』や『吾妻鏡』などに詳しく、『平家物語』では例えば一ノ谷の戦い鵯越などの話、弁慶の話などが有名です。(どこまで事実か脚色かは分かりかねますが)さて、そんな中義経は当時の最高権力者たる後白河上皇の信任を得、頼朝追討の院宣を得るなどしますが、逆に頼朝は義経追討の院宣後白河上皇から受けるなど混乱を極め、義経都落ちし吉野に逃げ、そこで静御前と別れたというのは実に有名な話です。1185年に守護地頭の設置の勅許を受け、義経を奥州まで追い詰め、ついに4代当主の藤原泰衡によって、衣川館で自害したというわけです。これにあっては「弁慶の立ち往生」(主人の義経を守るために飛んでくる矢を身を盾にして立ち尽くしたまま死んだって話)なんてのが有名ですが、平家物語などにはそのような記述は見られないそうで、するとこれは『義経記』などの創作というわけです。

さて、時代は500年下り江戸時代、ここに松尾芭蕉が訪れ、「まづ高館にのぼれば、北上川南部より流るる大河なり。衣川は、和泉が城をめぐりて、高館の下にて大河に落ち入る。泰衡らが旧跡は、衣が関を隔てて南部口をさし固め、夷を防ぐと見えたり。さても、義臣すぐつてこの城にこもり、功名一時のくさむらとなる。    国破れて山河あり、城春にして草青みたりと、笠うち敷きて、時の移るまで涙を落とし侍りぬ。

夏草や兵どもが夢の跡

卯の花に兼房見ゆる白毛かな 曾良

のように述べられています。まさにその通りであるとしか言いようがありません。実に的確にこの場所を捉えていると思います。(行ったのは秋の末で夏草なんかなかったのは内緒)

f:id:unknownhuman12340:20190218210312j:imagef:id:unknownhuman12340:20190218210318j:image

このあと参りましたのは無量光院跡でございます。ここも毛越寺と同様浄土庭園であったとされていますが、写真の通り現在は申し訳程度に池が残っているだけとなっています。

さて、ここまで紹介して寺院について申し上げます。

達谷窟と無量光院を除いてここの寺院は全て天台宗の円仁上人が開基したと言われています。三代座主の円仁は、五代座主の円珍と激しく対立したため、天台宗は山門派と寺門派(円仁は山門派)に分かれました。また、入唐した旅行記で『入唐求法巡礼行記』を著しています。その当事者であるわけですが、東北地方の有名な寺院には中尊寺毛越寺立石寺瑞巌寺など、円仁の開基とされる寺院が多いと感じます。ちなみに関東だと宇都宮の宝蔵寺や、現在は立派な楼門だけ残る真岡市の長栄寺などがあります。(近所なので紹介しただけ)

これらの寺院と奥州藤原氏の結びつきについて、中尊寺は1代・藤原清衡毛越寺は2代・藤原基衡、無量光院は3代・藤原秀衡によって造営されました。また、毛越寺の隣には基衡の妻が造営したとされる観自在王院跡があり、このようにそれぞれ極楽浄土を理想とした建築となっています。それぞれ円仁の興した寺院を再興した、ということになっていますが、考古学的に発見が今のところ乏しいようです。

 

さて、平泉を一通り見ぶつした後は盛岡に行きました。f:id:unknownhuman12340:20190218212956j:imagef:id:unknownhuman12340:20190218213000j:image

第一の目的は帰りのバスに乗車すること、第二の目的がグルメです。盛岡といえば冷麺とじゃじゃ麺が有名ですので、それをいただきました。

冷麺は現在の北朝鮮の地域に当たるところの由来らしいとされています。私個人としては冷麺の歯ごたえが好きなんですが、辛さなども美味しさの一つとなっていることでしょう。

これを食べた後にじゃじゃ麺を食べたので腹がはちきれそうでしたが、じゃじゃ麺は辛めで癖があるように思われました。関東だと「ジャージャー麺(炸醤麺)」というのですが、これとはまた違うようです。どちらもおいしゅうございました。

 

平泉は世界遺産に登録されておりますが、歴史を知らないと遺跡だけ広がっているだけでなにが良いのかよくわからないと思いますが、この地域の歴史や、それ以外にも『奥の細道』を読んでいくと面白さが一層深まるものと思います。