とあるツイ廃のブログ

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今更旅行記-④いい日旅立ち〜西へ〜-⑴九州

さて、長期間の旅行をした話です。

まず行程を申し上げます。

①東京-神戸六甲アイランド-阪九フェリー

②新門司港-門司-博多-下関-小倉-松山・小倉フェリー

③松山-道後温泉-石崎汽船-呉-広島

④京都-奈良-大阪

⑤東京

となっております。

では早速①②を見てみましょう。

まず大阪神戸〜北九州のフェリーです。阪九フェリー名門大洋フェリーと二者が競合しているようですが、今回私は安かったので阪九フェリーを選びました。f:id:unknownhuman12340:20190218220713j:imagef:id:unknownhuman12340:20190218223041j:image

瀬戸内海はどうやら物流の動脈的存在のようで、多くの船が行き交っております。フェリーに関しては、先ほどあげた二つ以外にも、別府の方面に行くフェリーさんふらわあ、宮崎の方に行く宮崎カーフェリーなどといったものがあり、四国方面ではオレンジフェリーなど、やはり豊富にあります。ちなみに東京から行った場合は、太平洋を経由して徳島に寄港し北九州に向かうオーシャン東九フェリーがあるので、ゆったりとした旅行にぜひとも使って行きたいものです。また、瀬戸内海を通るため明石海峡大橋などのライトアップは美しいのですが、広島の方を通るため夜景を期待しても、陸から少し離れているのであまり見えません。

さて、2日目に北九州は新門司港に到着しました。やたらご立派な建物でございます。f:id:unknownhuman12340:20190218221313j:image

門司港門司港はまた違いまして、門司港関門海峡で少々入り組んだ位置にあり、不便でありますからかは知りませんが、ひらけた新門司港をつくったのだと思われます。ちなみに沖合には北九州空港がありました。

さて、そこから1時間ほどかけて博多へ参ります。f:id:unknownhuman12340:20190218221659j:imageなにぶん九州には初上陸なので、駅だけでこんなに興奮しているようでは田舎者がバレてしまいます。それは置いておきまして、博多周辺は昔から商業都市港湾都市として栄えており、古来から大宰府などのように対中国の外交拠点として重要視されており、中世では博多と堺の商人が競って中国との交易を行っており、寧波の乱などでは実力行使があるなど対立もありました。現在でも関東からすると僅かながら異文化を感じるような場所であり(多分気のせい)1日もいられないというのが残念ではありました。

さて、九州に来たからには行きたいところがいくつかありまして、大宰府九州国立博物館吉野ヶ里遺跡であったのですが、九州国立博物館は時期的(年末だったので)に開館しておらず、吉野ヶ里遺跡はやや遠かったので、大宰府に参りました。f:id:unknownhuman12340:20190218222333j:imagef:id:unknownhuman12340:20190218222341j:imagef:id:unknownhuman12340:20190218222337j:image大宰府といえば…ということで、近くに梅ヶ枝餅なるものがありいただきましたら、なるほどなかにほんのり梅の香りがするおやきみたいなものです。美味しゅうございました。あと面白かったのはスターバックスですか、現代的な建築なんだかよくわかりませんけれども、木をふんだんに使った面白いものでした。f:id:unknownhuman12340:20190218222836j:image

さて本題です。大宰府とはいうものの、中途半端に天満宮しか行かなかったのはやはり時間がなかったためで、今度行くときはもっと時間を取って行きたいと思うものです。大宰府について申し上げますと、先ほども述べた通り古代日本の外交拠点として重要視されており、663年の白村江の戦いをうけて防衛機能が強化されました。それによって防人が徴発され、水城や大野城、基肄城などといった山城などが築かれました。この後は遠の朝廷として、九州地方での朝廷の出先機関として存続し、平安時代には格好の左遷先となったのです。菅原道真藤原伊周なんかはまさにそのような人で、政争に敗れたようなものが来たところです。(もちろん藤原隆家など、自ら望んできたようなのもいますが)

太宰府天満宮は「天満宮」、つまり菅原道真を祀っている神社ですが、これは昌泰の変で藤原時平に讒言されて左遷されたのちに雷神として清涼殿に襲来し、雷を落として混乱させたということで、北野天満宮での御霊会、ここ大宰府において丁重に祀られることになったわけです。

もう一人の藤原伊周について申し上げますと、こちらもやはり大宰左遷されてきた人物です。こちらは藤原道長との政争に敗れてここに来ました。ちなみに同時に出雲権守に弟の藤原隆家が左遷されましたが、その後中央に復帰したのち、今度は自ら大宰権帥として1019年に刀伊を武士団を率いて撃退したという人ですが、先に述べたように「眼病の治療のため」ということで自ら大宰府に行ったという人です。

ちなみに、大宰権帥の職は地味に江戸時代末期まで続いていて、明治維新の直前に廃止された職ですから意外と長く続いています。

その後は博多駅に戻り、うどんを食べるなどしました。うどんといえば香川の讃岐うどんが某うどんチェーン店の影響で有名ですが、博多のうどんも発祥の地を謳っているだけあって特徴的です。f:id:unknownhuman12340:20190219195331j:image讃岐うどんは一般に歯ごたえや喉越しが特徴的であると言われていますが、博多のうどんは大変柔らかいものです。また、柚子胡椒(胡椒といっても唐辛子)を入れて食べますが、つゆの味と引き立てあって美味しゅうございました。

この後は福岡市博物館に参りました。目的は様々ありますが、まず第一に有名な志賀島出土の「漢委倭国王」の金印です。f:id:unknownhuman12340:20190219195622j:image真贋などいろいろありますが、ここから出土したことから考えられことは、奴国が後漢と結びつくことができるほどの当時の日本における九州での有力勢力であったということでしょう。あるいは、西日本の勢力がもうこの時代、すでに一大勢力ができていたともいうことはできるかもしれませんが、この後は卑弥呼やその他倭国大乱などがあったため考えることは難しく、したがって前者の説が考えられます。邪馬台国との関連を考えてみることもできなくはないでしょうけれども、しかしそれにしても「奴」と「邪馬台」と名前は明らかに違いすぎ、また、時代も100年ほど変わるために考えにくいと思います。今後の研究が待たれるところで、私自身も興味深いと思っている部分です。

この後は、せっかく下関が近いということでフグを食べようと思ったため下関まで参りました。f:id:unknownhuman12340:20190219202215j:image関東では3、4000円するでしょうけれども、やはり現地では2000円程度と安くいただくことができました。やはりポン酢とフグは相性が良く、てっぴの食感が実に面白く、美味しゅうございました。

この後は小倉に戻り、松山・小倉フェリーに乗船して愛媛県松山市に向かいます。