とあるツイ廃のブログ

ツイ廃が140文字で抑えきれないなにかをただかきつくるもの

今更旅行記-⑥北海道・東北-⑵北海道

さて、北海道編です。北海道は3日間おりました。前回は青森から参りましたので、到着先はもちろん函館でございます。

まずは五稜郭に参りました。f:id:unknownhuman12340:20190224135201j:imagef:id:unknownhuman12340:20190224135205j:image

五稜郭はその名の通り五角形(の対角線=星形)をしているわけです。幕末に築城され、明治初頭の戊辰戦争の最後の戦いである五稜郭の戦いの舞台となったところです。ちなみに長野県にも五稜郭様の城郭である龍岡城というものがあり、あまり有名ではない気がしますが、同時代に築城されています。

この函館というところは、日米和親条約の締結に際して函館と下田が開港されました。これに際し、江戸幕府が旧来蝦夷奉行(蝦夷地<=北海道>の幕府による直接支配を担当した役場)を外交担当として再編した際に、箱館奉行の移設先として五稜郭は築城されました。しかし、完成直後に幕府が崩壊し、先ほど述べた戊辰戦争で、南から逃れてきた幕府軍が籠城し、最後の戦いの舞台となったところです。旧幕府軍の指揮官は榎本武揚、また戦争中に様々活躍した土方歳三は函館で戦死したということは極めて有名な話です。f:id:unknownhuman12340:20190224140437j:image

榎本武揚はこの戦いの後捕らえられた投獄されましたが、敵将であった黒田清隆により解放され、明治政府の外交官などとして活躍しました。外交官として最たる活躍に、樺太千島交換条約の全権公使としてロシアと交渉したことが挙げられます。ここで千島樺太交換条約について述べさせていただきますと、両国人雑居であった樺太及び日露和親条約下では千島列島のうち得撫島と択捉島間の国境が定められていましたが、それをロシア側との交渉を経て、樺太をロシア領、千島全島を日本領にし、国境は宗谷海峡と占守海峡と定めたものです。ちなみに、こののち日露戦争を経て締結されたポーツマス条約においては樺太南部は日本領となりました。また、樺太に関して、(チェコスロバキア軍支援を名目に反共を目的に実施された)シベリア出兵の時期にあった、ロシアなどのパルチザンによる日本人虐殺事件である尼港事件なども記しておこうと思います。榎本武揚の話に戻りますが、この後、大津事件(ロシア皇太子ニコライ<=ニコライ2世ロシア革命で処刑されたことで有名>が傷害された事件。児島惟謙の司法権独立の話はあまりにも有名)をうけて退任した青木周蔵外相の後を継いだ(第一次松方内閣)りもしました。もう一人あげた土方歳三新選組副長とその美貌は有名ですね。また、榎本武揚の説明中であげた明治政府軍側の陸軍参謀、黒田清隆は北海道と実に関わりが深く、開拓使長官や第2代首相を歴任するなどしています。開拓使長官時代は開拓使官有物払下事件(開拓使の官有物を、政商の五代友厚らに無利子格安で払い下げた事件)に関わり、明治初期の自由民権運動を盛んにする原因を作ったような人でもありますが、首相時代は1889年に欽定憲法である大日本帝国憲法天皇から受け取る(絵などが有名)などしていました。

さて、話だけ長くなりましたので次に移りましょう。函館といえば何かというとイカですね。f:id:unknownhuman12340:20190224144248j:image美味しゅうございました。市場などいけば踊り食いの類ができるらしいですが、どこだかわからなかったのでここに行ったというのは内緒です。夜ということで、

f:id:unknownhuman12340:20190224144359j:imagef:id:unknownhuman12340:20190224144404j:image前者は倉庫群、後者は「函館といえば」みたいによく出る感じの函館山からの夜景です。このあとは函館駅から高速バスですすきの駅まで行きました。3列で¥4000程度と、関東などとのレートの違いを感じました。

 

翌日は私の親族のツテをたよって札幌から小樽に行きました。よく行くので物珍しいとかいうものは特に思い当たりませんが、一応有名な小樽運河をどうぞ。f:id:unknownhuman12340:20190224144801j:image一泊しましてその翌日は苫小牧に行くので、送迎ついでに登別から戻りつつ苫小牧に向かいます。登別といえばf:id:unknownhuman12340:20190224145056j:imagef:id:unknownhuman12340:20190224145017j:image地獄谷でございます。クマ牧場などでも有名な温泉地ですね。道中は樽前山と太平洋が両側に見えるという、実に面白いものでありました。ちなみに樽前山の北側には支笏湖がありますが、それは樽前山の陰に隠れて見えません。

その次はさらに苫小牧に戻りつつ、白老のポロトコタンでございます。f:id:unknownhuman12340:20190224145239j:imageポロトコタンとはなんぞやといいますと、写真にもある通りアイヌ民族関係の資料館、体験施設のようなものです。現在は国立博物館にするとかで、2020年頃まで休館しています。私が行ったのは実はまもなく休館するというギリギリ最後の方だったようです。

f:id:unknownhuman12340:20190224145451j:image北海道犬です。某大手携帯電話キャリアのお父さんと血縁があるとかないとか言います。和犬は可愛い。

f:id:unknownhuman12340:20190224145611j:imagef:id:unknownhuman12340:20190224145617j:imageアイヌの住居などが再現されていました。よく言われる話ですが、民族は住んでいる場所に対応した文化を形成すると言いますが、このような住居や衣服などを見れば明らかです。また、アイヌの楽器であるムックリ(口に挟んでビヨーンビヨーン鳴る楽器)の実演などが行われていました。なるほどムックリはただビヨーンビヨーン鳴るだけではなく、微妙に音程を上下させてさまざまな情景などを表現しているものです。

さて、ここで北海道とアイヌ民族に関して私見を交えつつ申し上げます。アイヌ民族は、現在でこそ日本の先住民族の一つとして認められているもので、例えば1997年にアイヌ文化振興法などが制定されるなどしています。しかし、それが制定される以前は明治時代に制定された法である「北海道旧土人保護法」に見られるように、差別的扱いを受けていたと言うことができます。おそらく日本の小中華意識(つまり日本を中華、周囲を夷狄とみなすような東アジア、特に中国の各王朝において見られるもの)や明治時代〜戦前の帝国主義の考え方よるものでしょう。小中華意識というものは日本における明治政府以前、江戸時代などにも見ることはでき、琉球王国の扱いや松前藩への献上を描いた絵画、また、蝦夷地(異民族や朝廷に従わない人間の地。古代でいうと東北地方の住民はまさにそのようであったため、坂上田村麻呂など征夷大将軍が征討した。「夷」の字自体、中華思想における周囲の夷狄<東夷、西戎北狄、南蛮>のうち東夷に含まれていることからも、いかにも異民族の扱いを受けていたと言えるであろう)と呼ばれていたことなどからもわかります。

時代は遡り日本で言うところの縄文時代から日本人とアイヌ民族の関係を見てみますと、縄文海進(縄文時代の海面上昇)以前、北海道と本州は陸続きであったということから、日本人と北方の居住者(ただしこれとアイヌは必ずしも一致しない可能性があるので、以降室町時代以降の考察に至るまではこの名称を用います)の行き交いは自由、その後も弥生時代などにおいても船による行き来などは十分にできたので、この時代においてはアイヌと古代日本人の違いはあまりなかったということができるでしょう。しかしこの後、本州においては稲作が広まりましたが、北海道においては泥炭地などによる貧弱な土地および稲には寒冷すぎる気候で狩猟採集経済が続いたことにより、本州では首長などを中心に稲作などを協力し合うような文化が発生し、中央集権の国家が出来上がった一方で、北方の居住者は先の理由により各部族ごとで分立した状態で、狩猟採集(一部ヒエやアワ、マメなどの農耕文化を含むか)を中心とした続縄文文化や擦文文化、オホーツク文化といった本州とは異なった、稲作を中心とはしない独自の文化が続いていきました。これに加えて周辺の各民族(特にロシア極東部)との交易も相まってそのような人々との混血が進んだ結果、アイヌ民族というものができたのではないかというのが私見です。したがってそもそも先住民族、というよりかはそもそも同じようなものだということができるでしょう。これらは未だ研究途上であることは否めません。これからの研究が待ち望まれます。

その後「アイヌ民族」がはっきりわかるようになる室町時代には、「道南十二館」(箱館や志苔館など)を中心にアイヌと和人の交易がありましたが、双方の口論をきっかけとするコシャマインの蜂起や、江戸時代には交易の不平等を主張するシャクシャインが蜂起するなど一部では反抗がありましたが、概ね平穏な交易が行われていたということができると思われます。アイヌ側は干物の鱶鰭(フカヒレ)やいりこ、アワビといった俵物(これを日本は清に輸出することで利益を得た)、和人商人側は漆器などを交換しました。これによりヒエやアワ、キビ、ソバなどのアイヌの農耕文化は一気に衰退したとされています。話は前後しますが、この背景には江戸時代の松前藩の設置設置があります。ここがアイヌとの交易を担いました。商場知行制からの場所請負制。交易権を知行主たる家臣に与え、知行主(=家臣)が直接関わるか、運上金を得て間接的に関わるかという違いがある。)また、江戸時代ではロシアが進出するに伴って幕府が松前奉行を置いて直接統治したり、あるいは根室に大黒屋光太夫を連れたラクスマンが来航したりと様々なことが起こりましたが、最終的に先ほどのように明治新政府によって北海道が設置され云々ということになります。

結局アイヌは異民族とよく言われるものであっても、実際は我々日本人と大して変わらないものから、差別というのは実に意味のないことであるというのが私の主張です。これは同じような歴史をたどっている沖縄などにもいうことはできると思います。

さて、話を戻しまして、ポロトコタンはアイヌ民族を知ろうとするためには非常に興味深く思わせてくれるものでしたので、ゴールデンカムイが流行しているような昨今ぜひ行くべきところでしたが、現在閉館中というですので、早い再開館が待ち望まれるところです。

 

長くなりました。この後は苫小牧港に向かい、太平洋フェリーで仙台に向かいます。

太平洋フェリーと言いますと「きそ」「 いしかり」「きたかみ」の三隻を所有し、苫小牧〜仙台〜(一部)名古屋で運行しているフェリー会社です。この旅行当時(2018年3月末)は旧きたかみ(現在の同名船は2019年1月に就航した最新鋭)がありましたので、同社の他船より値段が安く設定されていました。(現在は船室ランクの変更もあってだいたい同じくらい)それを狙って北海道に1泊したというのが実情ですが、その行程にしてよかったと今でも思います。

 

次は東北編です。仙台から山形に参ります。