とあるツイ廃のブログ

ツイ廃が140文字で抑えきれないなにかをただかきつくるもの

英語不要論…?

巷でよく聞くのと、果たして私自身英語に集中してやるべきか、それとも受験程度で放っておいて中国語やスペイン語などを話せるようにしておくべきなのかということが気になるので、検証していきたい。

1.日本にいる限りでは英語はほとんどいらない

英語というのは外国語である。つまり、我々が日常使う日本語というのは全く異なる。しかし、日本語の特徴としてよくあるのは、外国語を「外来語」として包含してしまう(ここまでは実際フランス語から英語に行った例も多々ある)ことや、最も大きな点としては、杉田玄白から福沢諭吉などの尽力により、外国語に対する訳というのは、厳密とは言えないまでもそれなりにしっかりとある(「哲学」とか「社会」とか)わけで、実は不要なのではないか?

これに関する私の答えは「はい」。たしかに私は日本で生きる以上は日本語はいらないと思う。日本語だけ十分できれば他は何もいらないと思うところだ。要するに個人の趣味で、海外進出したいか否かで学ぶべきかどうかを決めるのが良いと思う。そのとき、一般に「英語さえやっておけば〜」というのはよくいうが、例えばオーストリア行って英語しか話せないというのは野暮にもほどがあると考えられる点で、海外進出の時には現地語をある程度話せなければならないと思うところはあり、そこから見ると実際のところ絶対に英語がいいというわけではなく、いきたいところの言葉を優先して学ぶべきだと思う。

2.英語使用国が落ちぶれる可能性と、他言語の台頭

今はアメリカが経済的にも大きな力を持つために英語が広く学習されているが、昨今の斜陽の状態であろうアメリカの状況を見ると、果たしてそのままでいいのか?今も途上国や、GDP世界一位の中国語やスペイン語の方が良い可能性は?

これに関しては否、と答えるか。しかし微妙なところだ。英語は落ちぶれるか否かという問題以前の「人類共通の言語」という認識がほぼ確実になってきているところだと思われる。しかし、果たしてそうなのか?例えばこれから第三次世界大戦が勃発し、アメリカが敗戦国になり、ロシアや中国あたりが戦勝国となったら、我々はそれでも英語を学習し続けるのか?…という夢物語に等しいところは置いておき、そこに英語を学習する意味を見出すのはどうなのかと思う。現状として、これまでの情報化社会の進展は英語中心に行われてきたわけだが、しかし昨今(しかもここ2、3年)は中国語やスペイン語も目覚ましい。我々日本人は、中国語を発音するのは厳しくても読んで意味をなんとなく理解することはできるので、それを発展させて行くこともできれば良いのではないかと思う。

3.英語中心主義が気に食わない

とりあえず英語を偏重しておけという風潮が嫌だ

これに関しては、「まあ我慢しろ」ということしか言えない。しかし実際のところ、数の暴力とでもいえばいいのかはどうだっていいが、中国語が世界で最も話者数が多い。(そらそうじゃ、13億人もいるんだからな、ただし北京語に限らず広東語などの方言も包含されている)英語は2番目、それにスペイン語ヒンディー語、と続く。一方、英語さえやっておけば世界各国、世界人口の20%くらいを占める「グローバル人材」とつながることはできる。残り80%はどうするんだというツッコミはさておき、極めて偏屈で個人的な意見を申すと、この「グローバル人材」ってのは気に入らないもんで、グローバルな視点を求めるあまりローカルを捨てがちなのだ。日本語がまともに話せやしないのにグローバルというのは全く恥さらしだとは思わないのかと感じるところはある。さらに、実に反知性主義的なことを申すと、この「グローバル人材」というのは、中世ヨーロッパの聖職者のイメージ、つまり限られた人物だけが話せるという点で極めて似通っているので気持ち悪い。英語の母語話者と、学習して「グローバル人材」になった人間のの傲慢さがにじみ出ているように感じられるのだ。(だから保守反動がいま起きているというわけだろうけども) ところで、このような考えのもとで「ナイジェリアが将来出てくる」なんて話を聞いたことあるが、決してないとは言わない。実際アフリカではGDP1位だ。しかし、その産業が石油などの資源に偏重している点では果たしてどうかと思うところは多々あるので、こういうのは話半分に聞くに留めておこうと思うし、なんだったらそれを主張していたのは中国台頭前だからなおさら信用ならない。英語偏重の主張に基づく論理だ。

さて話を戻そう。結局英語偏重の考え方は、成功した人間がたまたま英語をやっていただけで、それをなぞろうとするだけの想像力のない人間がする一番愚かなことなので、英語に縛られずにいろいろやってみるといい。しかし、愚かな受験業界はいまだにそれを盲信しているわけだから、受験では「我慢して」受け入れなければならないというだけだ。(無論アメリカとかエゲレスとか行くならガンガンやるべきだが)

以上、私の結論の前に、ずっとある迷いというのをはっきりさせたい。(極めて個人的な話だが、ヨーロッパに行きたいのとオペラを理解できるようになりたいので、イタリア語とドイツ語あたりはやっておこうかと思うのだ。しかし、アイルランドあたりにも興味があり、なんだったら留学なんかもしたい(単純に英語は一番やっているし簡単)ので、英語もやっておくべきだと思い、さらにはいずれ南米に行くであろうということを考えスペイン語、また、中国文化などもわかりたいので中国語もやっておきたいのだ。つまり、5言語を操れなければいけないということだが、いかんせん手が回らない。という迷いをはっきりさせておく。一番いいのは全部やっちまえという話だ。やってしまえばいいのか。つまり、10の力があったら英:独:伊:西:中=4:1:1:2:2くらいか。)

したがって、英語に重点を置きつつ広く浅く言語に当たって、ある程度文を作れる程度までは話せるようにしておきたいところだと思う。不要かどうか以前の問題で、やっておくに越したことはないのだ。いずれにせよやっておかなければ意味はないので、行動するべきだ。

とりあえず主張はこんなもんだが、蛇足を入れると、英語の文法は果たしてどうなのかという話。

英語はドイツ語派であり、文構造なんかはドイツ語、オランダ語に近いという。どちらにも「第1、2、3、4格」があり、男女名詞などがあるわけだが、英語はそれらが消えた。つまり簡略化が起きているのだが、その分音も飛んだため、黙字というのが出てきた。(ちなみにこのせいで英語圏にはディスレクシアが多いと言われる。逆に文字と音が一致するイタリア語には少ない)しかし、この簡略化のせいで一部簡略化されずに残ったワケワカランのが、まさしく三人称単数現在形のs(ドイツ語だと全部活用しますでしょ)などである。これらは思うに、背景から理解しないと結構厳しいのではないかと思っているところで、したがって英語は結構特殊だということだ。他言語に応用しづらい。(語法とかは他言語と似通うと思われるので逃げ道にはならないが)

昨今は語源で覚える系のものや英語史が小ブームなのかは知らないが、そういう点に着目すると面白いと思う。