とあるツイ廃のブログ

ツイ廃が140文字で抑えきれないなにかをただかきつくるもの

夏の関西旅行①〜大阪・奈良・天理〜

恒例の(?)夏の関西旅行記と取るに足らないうんちくです。

メインイベントのものはプライベートなので言いませんけど、そのあとの余興(3日)のまとめです。お盆ということで移動手段の確保がなかなか厳しく、¥8000近い高速バス、しかも4列スタンダードという修行を積みましたが、宿は快適です。

さて、1日目はメインイベント終了後、すぐ南にある大仙古墳(仁徳陵古墳)に行ってまいりました。つい先日世界遺産に登録された、日本最大の古代の墓です。f:id:unknownhuman12340:20190811210118j:imagef:id:unknownhuman12340:20190811210221j:image

全景は上空から見ないと見ることなどできませんが、一応横から見るとこのような感じ(上の石でできているのは俯瞰的に周囲の古墳も示しているもの)です。見ればわかるように鳥居がありますが、これは宮内庁によって天皇陵、すなわち神道の神の一人として祀られているからというわけです。その天皇こそ仁徳天皇とされています。なお考古学的には、仁徳天皇崩御と推定される時期と古墳の年代がどうも合わないらしいですが、いずれにせよ最大の古墳であるという事実は揺らぎません。

まずは仁徳天皇についてです。日本の古代の天皇は実態がよくわかっていない(なぜなら日本書紀古事記の誇大だったりとかするからで、なぜ誇大しなければならないかというと、それこそ奈良時代に日本が目指した唐と同程度の実力と歴史を持つことを示したいからでしょう、だからいわゆる「欠史八代」という、2代・綏靖天皇〜9代・開化天皇がいるわけです。実際史料批判とかしてみると29代・継体天皇以前がほとんど怪しいらしいが)中で、中国の宋書梁書に出てくる倭の五王のうち、「讃」や「珍」に当てることができる点で、おそらく実在したのだろうと考えられています。(先述の継体天皇以前は怪しいという説に乗るとこれもバカバカしいのではないかとも言えるかもしれないが)

次に古墳自体に関してです。大仙古墳は、その規模ゆえに陪塚(ばいちょう。先の俯瞰的模型の写真では、大仙古墳の周りにある小さい山々みたいな古墳)が数多くあります。それとは別に、大仙古墳から少し南に行くと、百舌鳥耳原南陵(履中天皇陵と比定される)という大仙古墳には及ばないまでも大型の古墳があり、東に行けばニサンザイ古墳というやはり大型の古墳があります。これらは概ね堺市北区百舌鳥のあたりに集中して存在するため、「百舌鳥古墳群」と呼ばれています。また、さらに東に行くとしばらくは古墳は見られないものの、羽曳野市古市のあたりに、誉田御廟山古墳(応神天皇陵と比定される)という、大仙古墳に次ぐ大きさの古墳があり、その周辺には仲津山古墳などといった大小様々な古墳が集中しています。これらは「古市古墳群」と呼ばれ、先の「百舌鳥古墳群」とともに、2019年に世界遺産に登録されました。従って先ほど「大仙古墳は世界遺産に登録された」というのは、間違いとまでは言い切れないものの不正確だと言えます。

古墳に関しては、被葬者が誰なのかというのはかなり謎に包まれています。その考古学的調査が待たれます。また、個人的な疑問点としては、特に前方後円墳前方後方墳などのような古墳においては(もしかすると円墳や方墳などでも言えるだろうが)何を基準に方向が定められているのかということです。百舌鳥古墳群を見てもわかるように、大仙古墳や百舌鳥耳原南陵古墳なんかは北北東方向を向いていますが、同じ古墳群のいたすけ古墳やニサンザイ古墳は東南東の方向を向いています。同様に古市古墳群でもいうことができます。棺の方向の関係などが考えられると思います。しかしそれをいうなら、棺をなぜその方向にする必要があったのでしょうか?占いか何かなのでしょうかね?ということで、研究が待たれます。

さて、次は奈良に行きました。元興寺と新薬師寺でございます。

まずは元興寺です。f:id:unknownhuman12340:20190811215717j:imagef:id:unknownhuman12340:20190811214535j:image

元興寺は、明日香村にある飛鳥寺平城京遷都とともに移転(完全というわけではなく、飛鳥寺が残っているように一部残ったままの移転)したものです。もともと蘇我氏が建立した氏寺だったわけですが、南都七大寺という大寺院グループの一つということで移転したのでしょう。さて、今でこそかなり廃れ規模も縮小したものの、創建(移転)当時は極めて大規模な寺だったということが、この北方にある塔跡などから伺えます。また、建物自体も飛鳥から移設・移築したものがあったようで、飛鳥時代の瓦が使われている部分があるらしいです。また、行基葺という、屋根瓦に特徴的な跡(菱形が連続して残る)のある瓦も見つかっているようです。f:id:unknownhuman12340:20190811215617j:image

その後、猛暑の中延々と歩いて新薬師寺に参りました。奈良公園春日大社の奥の方にあります。

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f:id:unknownhuman12340:20190812225255j:image薬師寺は、西ノ京駅目の前の薬師寺とは関係ありません。いずれも規模は多少縮小したものの現存します。もちろん由来も異なり、薬師寺天武天皇が皇后(のちの持統天皇)の病気平癒を祈願し、後者は光明皇后(藤原光明子)が、夫の聖武天皇の病気平癒を祈願し、いずれもそれに該当する仏である薬師如来を本尊として発願・建立されました。(前者の薬師如来は前行ったのを記事にしているんで是非見てね)

さて、新薬師寺といいますと、薬師如来がやはり有名です。薬師寺が美術年代で言う所の白鳳時代(天武・持統天皇の頃)、こちらは天平時代(聖武天皇の頃)です。天平時代くらいまでの仏像は、それぞれ個性が強く、新薬師寺目がはっきりしていることが特徴的だと思います。また、十二神将像がそれを囲みます。十二神将とは、十二支のそれぞれを擬人化(擬神化とも言える)したもので、巳年の私は巳年の神さまをお参りしました。兜をかぶり、槍を持っている姿は凛々しくかっこいいものです。

その後宿に参ります。今回の宿は天理市にとりました。

さて、天理市と聞くとまず思い浮かぶのは間違いなく天理教でしょう。天理教は、明治時代に中山みきを始祖として始まった宗教(大日本帝国時代には教派神道の一つ。ほかには金光教黒住教など、日本史の教科書に載っている)です。教派神道は幕末に成立した神道系の新興宗教です。明治時代、神道が民衆に浸透する一方、これら教派神道も一種の神道として政府にに認められていきました。その一番最初に認められた教派神道天理教です。

さて、新興宗教というと、某平成初期に国家反逆を企てたカルト宗教や、あるいは頻繁でしつこい勧誘ということで世間から煙たがられるような節がありますが、そもそも「新興宗教」の意味合いとしては「新しく興った宗教」という意味に過ぎません。第一、カルト教団であれば政府が認めるわけはなく、否定的な文脈で教科書に載ると思われます。我々は宗教をタブー視し忌避するようなのではなく、積極的に理解し、受け入れることがこれから求められることだと思います。(無論カルト宗教は突っぱねるべきだが、それにも最低限の理解は必要)そういう私は無神論者みたいなことを言いますが、無神論者なら寺社仏閣なんて行きませんしキリスト教系の受難曲だのカンタータだのなんて聞きませんからね、信条に反しますからね。完全なる無心論者ではないわけです。ただ単に誰がどんな人だのというのには全く関心がないだけの、救ってくれるなら誰でもいい貪欲な人間だというわけでございます。

さて、天理教に関して軽く触れておきましょう。先ほど述べた通り、創始者中山みきという江戸時代末〜明治時代に生きた女性です。現在の天理市に当たる場所で生まれ育ったため、天理教においては天理市を、ちょうどイスラム教のメッカに当たるようなイメージで聖地として扱います。この聖地・天理(人間発祥の地とされる)を「ぢば」といい、天理への巡礼を「おぢばがえり」といいます。このために天理駅やその周辺には、「ようこそ おかえり」という看板が随所に見受けられます。教義は「陽気暮らし」で、陽気に楽しく暮らそう、そういう世界を目指そうということを第一の教えとし、他人、それがたとえ他宗教や敵対者であったとしても愛することです。このためにカルト化せず、穏健な宗教になったという考察もできるかもしれません。

あまり深入りし過ぎて勧誘になると困るのでこの辺で切り上げまして、次は地方公共団体としての天理市を見ます。宗教都市ということでなにか変わるものはるかというと、実際あまりありません。ただ、日本のほかの宗教都市(神道の例で行くと伊勢市橿原市出雲市など)はせいぜい門前くらいが神道(とそれに乗った商売)色が強いものの、街全体で神道というのはりません。一方で天理市は中心部が天理教で、その周囲となるとあまり強くないものの、やはり中心部の天理教インパクトは大きいものです。なんたって市役所も天理教関係の施設のような外見をしているのです。だからといって決して市役所業務も天理教がやっているかというとそうではありません。外見以外は普通の市役所です。人口は6万5000人程度と一般的な感じですが、7月下旬〜8月の「こどもおぢばがえり」の時には20万人ほどが天理市を訪れるので、人口の割には駅や道の規模は大きいです。駅には団体待合所や団体改札があります。

さて、天理市といえば天理教イメージの一強ではありますが、それ以外にも色々見るべきところというのはあります。まずは石上神宮(いそのかみじんぐう)です。天理市にあるものの、こちらは純粋に神道の神社で、なおかつ「神宮」とあるように旧官幣大社という大きな神社です。布都御魂大神を祀っています。f:id:unknownhuman12340:20190812223232j:image
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日本書紀』において「神宮」と称されるのは、ここと伊勢神宮だけで、しかも伊勢神宮と並び最古の神社とも言われます。飛鳥時代の頃には物部氏氏神の神社として存在していました。現在、拝殿は国宝になっています(が、畏れ多い…というよりは撮影がどうなのか微妙だったので撮影していませんが)。このほか、古墳が多数あります。おそらく物部氏関係なのかなと思うところですがよくわかりません。しかし、天理市というのは天理教インパクトに比しても神道、ひいてはふつうに歴史も深い場所で、知れば知るほどその面でもインパクトがやはりあります。

最後に、天理市の印象についてです。宗教都市ということで、勧誘だの謎の儀式だのというのはないかというのは、きっぱりと「ない」といえます。休日だっただけかもしれませんが。ただ、天理教関係者(はっぴを着ている)はたまに見かけますし、なんだったら天理教関係者の宿泊施設(「母屋」という。でっかいアパートみたいな建物)は随所にあり、多少気味悪さがあるかも知れませんが、逆にいうと静かなところです。交通の便はJR万葉まほろば線近鉄天理線奈良交通のバスがあり、近鉄天理線は京都や橿原神宮前まで直行でき、本数も20分に1本程度とそこそこあります。バスは近鉄・JR奈良駅まで行くので割と便利です。問題がJR万葉まほろば線で、こちらは隣の桜井市にある纏向遺跡(巻向駅すぐ)や、大神神社(三輪駅)、また、王寺駅奈良駅から法隆寺駅へのアクセスが便利な一方で本数が1時間1、2本程度というローカル線なので注意するべきだと思います。

1日目は以上です。

おまけf:id:unknownhuman12340:20190812225513j:image
f:id:unknownhuman12340:20190812225517j:imageそういえば最近せんとくん見ませんね…?