伊豆は修善寺の方に参りました。
と、その前に経由地の三島で、三嶋大社に参詣したのです。
三嶋大社は奈良時代の文献に出てくるなど、東日本屈指の古社ですが、創建年代は分かっていません。平安時代には令制国(*1)に一宮以下神社に序列(*2)ができ、この際に伊豆国の一宮となりました。このように、古来から信仰厚く参詣者が多数あったために、鳥居の前に鳥居前町(*2)、いわば一種の商店街ができ、現在の三島の市街地(*3)の元になっているのです。
ところで、この“三島”は何を指すのかというと、これは伊豆半島の沖合に見える島、“御島”に由来すると言われており、その島は伊豆大島とも三宅島とも新島とも、あるいはその3島とも言われています。ただ、私は個人的に鳥居の方角などから考えて新島説を推してみたいところです。
現在(2020年3月)は、本殿と拝殿は何もしていませんでしたが、その手前にある舞殿が改修工事をしていました。各殿は重要文化財になっています。
さて、お昼を食べた後には修善寺に参りました。
修善寺の地名はその名の通り寺院に由来しますが、当の寺院は「修禅寺」と名乗っています。普通は湧水だか水道だかの手水舎の水が温泉、階段の脇にはスロープが付いていてバリアフリーなどという特徴を除いては割と普通の寺院に見えますが、実は面白い歴史が多く残っているのです。
なお以下、地名を「修善寺」、寺院を「修禅寺」と表記することとします。
ところで、「修禅寺」は「禅」からわかるように、修善寺は現在、禅宗の曹洞宗の寺院です。ちなみに「修善寺」の表記も実は歴史的にあり、こちらは創建当初から鎌倉時代の名称です。この創建者が空海と言われています。そのため、寺の前には、空海が川の冷水で背中を洗う少年と父親に対して、独鈷(*4)で突いたらお湯が出てきたなどという逸話のある「独鈷の湯」と呼ばれる湧湯があります。独鈷の湯には法的に何かあるらしいのと、割とぬるいので入れませんが、望める位置に足湯があります。
閑話休題。ここで、なぜ“鎌倉時代に”宗派と名前が変わったのかという至極簡単な考察をしてみますと、源氏がいたからということが考えられます。すなわち、武家の信仰が厚かった禅宗の寺院に変えたしたというわけです。なぜ源氏がこんなところにいるかというのは、それこそ頼朝と北条氏がこの辺りに深く関わっていたからといえます。頼朝は伊豆に流罪になり、北条氏はこの少し北の長岡を拠点としていたのです。(なお北条氏に関しては②で詳説します)
さて、修禅寺は源氏の動乱に関わっていることも割と有名だと思いますが、その最たるものは頼朝の弟・源範頼の流罪と、2代将軍・源頼家の幽閉だと思います。
まず源範頼は、平家の追討に際してめざましい活躍をあげたものの、治承・寿永の乱(いわゆる源平合戦)や奥州合戦(*5)後のどさくさに紛れて「頼朝が殺された」というデマに接した際に、頼朝の妻・政子に「範頼ある限りご安心を」などと声をかけ、実はまだ生きていた頼朝に謀反の疑いをかけられ伊豆に流されてしまったいう人物です。その伊豆で幽閉されていた場所がまさに修禅寺です。その後範頼は修禅寺で誅殺されたらしく、寺の裏山の中腹に墓があります。
一方、2代将軍・頼家は、馬から落ちて急死したらしい頼朝の跡を継いで将軍になったものの、政治が独断専横で、北条氏はじめ有力御家人をほとんど無視したため無能扱いされ、重病を患い紆余曲折あって修禅寺に幽閉、その後北条時政により暗殺され、頼家の墓は修禅寺に対して川を挟んだところにあります。なおその後3代目の実朝が将軍になりますが、このとき政治の実権は、頼家の死により北条氏(*6)に移っていました。
このように、源氏に深く関わってきた修禅寺ですが、他にも、例えば三島由紀夫(*7)のペンネームは修善寺の研修に際し通った「三島」と、そこから見えた富士山の「雪」に由来するという話などのように、文豪にも割と関わりがある場所です。
まずは反射炉とはなんぞやというところから始めましょう。反射炉とは鉄鋼や青銅(*8)を作る(精錬)ためのでっかい炉です。現在においては韮山反射炉は既に遺構であり、また、鉄鋼はこの方法では作られてはいないものの、反射炉の仕組み自体は銅やアルミニウムの精錬に用いられています。
金属を精錬する(つまり溶かす)わけですから、例えば鉄では1538℃以上の非常に高い温度が必要です。無論石炭だけではそんな熱を出せるわけはないので、どうにか温度を上げる必要があります。そういうわけで、反射炉では鉄を溶かす炉の内部をドーム状にし熱や炎を反射させ温度を上げ、金属を溶かすのです。ところでこの塔は煙突で煙が出ていくだけであって、本体はその下の箱の部分です。
写真にもチラッと写っている説明板を見やすいようにさらに説明すると、高温で溶けた鉄は緩やかな勾配を下り、出口に流れてきます。そして、今は痕跡しか残っていませんが、4枚目の写真の場所にあった型に出てきた液体金属が流し込まれます。自然冷却されたのち、反射炉の敷地に引き込まれた、5、6枚目の韮山古川(なお写真はさらに下流のもの)の水力を使い(故に敷地内には当時、水車があった。)大砲の砲口を開けたのです。
このような仕組みを持つ反射炉ですが、日本は幕末期、強大な力を持つヨーロッパ諸国に対抗しようということから軍事関係に注力するようになりました。そこで、吉宗の時代から徐々に盛んになってきた蘭学(*9)で入手した知識を基に、近代的(≒西洋的)軍備を行うこととなりました。そのためにはまず、鉄鋼はじめ金属の精錬技術の効率化が必要なのは言うまでもありません。そこで、例えば水戸や長州、薩摩の雄藩や江戸幕府は反射炉を建造した(*10)のです。そしてこの韮山反射炉は、この中で江戸幕府が建造したものです。見ればわかるように、韮山では2基4炉建造されました。
初め、この韮山反射炉は韮山ではなく下田に造られるはずだったのです。おそらく下田を軍港にする手筈があったからだと思われますが、1853年にペリーさんと愉快な仲間たちが来航し、下田に上陸してしまったので、急きょ場所を伊豆のど真ん中、韮山に移したとされています。建造当初は筋交型の鉄骨はなく表面は漆喰で塗り固められ外観は白かったとされるものの、明治時代にはほとんど使われなくなり、雑草が生い茂っているほどでした。しかし、修繕はなされていたようで、縦横に鉄骨を入れたり、昭和時代には筋交を入れるなど、現在まで耐震や補強の工事が行なわれています。
なお、韮山反射炉に限らず、萩反射炉やそれに関連する鉄山(*11)や炭鉱(*12)は世界遺産(明治日本の産業革命遺産)に登録されています。そんな最近のものは遺産になるのかとか、他の国の産業革命はどうなのかとかいろいろ議論はあるかもしれませんが、日本の産業革命は他の各国のものに比べ急激で一気に欧米の列強に並ぶレベルになったことを考えると、まあ妥当ではないかと思います。
1日目の最後は宿泊の場所である伊豆長岡です。韮山反射炉から線路と狩野川を挟んで反対側です。
伊豆半島には修善寺や熱海(は微妙だが)はじめ、様々な温泉があり、ここ伊豆長岡も有名な温泉の一つです。かつては芸者などが多くいたらしいものの、現在は随所に足湯があるなど、割と地味めな温泉街の様相です。
注釈
(*1)令制国:例えば武蔵国、常陸国、大和国のようないわゆる旧国名。
(*2)鳥居前町:大神社の鳥居の前に形成される町。上記のように商店街のようなものだと言える。他に、例えば「門前町」は寺院の門の前に形成される。いずれも参拝客を相手とした商売が行われていた。
(*3)三島は伊豆国の国府も置かれていたので、かつて「国府」(こう)などと呼ばれていたらしいが、鳥居前町の拡大で三島と呼ばれるようになったという。いずれにせよ国府関係の街と合わさったとも考えられるかもしれない。
(*4)独鈷:密教で使う道具(金剛杵)の一つ。空海は真言宗、真言宗は東密と呼ばれる密教につながる。さて、金剛杵は、中央がデコボコして先端が細い棒と、先端が3叉になっている棒と4叉になっている棒などがあるが、独鈷は先端が細い棒。なお、3叉のを三鈷杵、4叉のを五鈷杵という。
(*5)奥州合戦:義経を匿ったとして、奥州藤原氏(当主は藤原泰衡)を頼朝ら源氏軍が討った戦い。これにより平泉が廃墟と化し寂れてしまった。
(*6)この時に、北条氏はじめ有力御家人らによる13人の合議制が成立し、将軍は名誉職のようなものとなっていた。そのため実朝が金槐和歌集を編纂したり文化に精を出すようになる。
(*8)青銅:銅と錫の合金
(*9)蘭学:オランダ(阿蘭陀)の学問。江戸時代に日本と国交があった西洋の国はオランダだけだった。そこから輸入されてくる洋書(オランダ語)を翻訳し、日本は西洋の技術や知識を取り入れていった。例えば「解体新書」は、オランダ語訳のドイツの医学書「ターヘル・アナトミア」から翻訳されている。
(*10)萩の反射炉は煙突だけ残存し、世界遺産になっている。また、水戸藩の反射炉は那珂湊付近に復元されている。
(*11)例えば釜石鉄山