とあるツイ廃のブログ

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伊豆の旅〜②伊豆長岡

伊豆の旅2日目でございます。

さて、2日目は伊豆長岡温泉に泊まったので、その近くの北条氏邸や堀越御所跡に参りました。

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まずは北条氏邸です。伊豆長岡温泉から伊豆長岡駅に向かって橋を渡り、渡り切ってすぐに狩野川沿いに歩いていくと、高校の裏手に小高い丘が見えてきます。この山は守山といいますが、さらに進むと北条氏邸跡があります。今でこそ野原に少し木が生えているくらいの場所ですが、3枚目の写真のように、裏に回り込んでみると石垣が残ったりしていますが。果たしてこの石垣は北条氏邸の遺跡はわかりませんが、一応申し述べておきます。

それはさておき、北条氏(*1)は鎌倉時代の執権ということはあまりにも有名です。祖先は桓武平氏と言われていますが、これは諸説ありよくわかっていません。ともかく、北条氏の拠点はこの邸宅跡のように伊豆国なのです。鎌倉時代、特に承久の乱以降は将軍の補佐という建前、実際は将軍を名誉職のように扱い政治の実権を握ったのです。(*2)しかし、元寇後の武士の困窮に伴う武家の不満、北条氏の強権に伴う御家人の排斥(*3)で北条氏への不満は高まり、そして遂に立ち上がった後醍醐天皇島流しにするという、超えてはいけない一線を超えてしまったが故に、足利高氏(*4)や新田義貞楠木正成らに北条氏(当時の執権は北条高時)は滅ぼされてしまいました。そうして、足利尊氏(*4)を中心とする室町幕府へと時代が移り変わります。

ところで、北条氏の興隆の発端は、のちに鎌倉幕府を開く源頼朝が伊豆に流されてきた時に北条政子と頼朝が恋仲になったということです。守山の付近には北条政子の産湯を汲み出したと言われる井戸もあります。f:id:unknownhuman12340:20200324191641j:imagef:id:unknownhuman12340:20200324191645j:image井戸の中は雑草が生い茂っていますが、一応水は汲み出せるようです。

閑話休題北条政子は将軍の奥方なのでそれなりに権力があるわけです。夫の頼朝、子の頼家、頼家の弟の実朝の相次いだ死後、まだ存命だった北条政子は「尼将軍」として、出家し尼になりながらも将軍の代行としての務めまでも果たします。死の4年前に起きた承久の乱(1221年)に際し、「皆心を一にして奉る[聞く]べし。これ最期の詞なり。故右大將軍[頼朝] 朝敵[平氏]を征罰し、関東を草創してより以降、官位と云ひ俸祿と云ひ、其の恩既に山嶽よりも高く、溟渤[海]よりも深し。報謝の志これ淺からんや[浅いことがあろうか、いや、深い。]。而るに今逆臣[後鳥羽上皇]の讒[讒言:言いがかり]に依り非義の綸旨[理にかなわない天皇の命令]を下さる。名を惜しむの族は、早く秀康・胤義[藤原秀康と三浦胤義。いずれも後鳥羽上皇方で、胤義は秀康に説得され上皇方で参加した]を討取り三代将軍の遺蹟を全うすべし。但し院中に参らんと慾する者は、只今申し切るべし。」(『吾妻鏡』。Wikipediaより引用、[ ]は引用者注)というように、「頼朝の恩は山より高く海より深い」「頼朝に報いよ」と、武士に演説した話などは有名です。これにより北条氏は武士の支持を得て、承久の乱北条義時・泰時らが率いて圧勝し、北条氏の全国支配を固めたと言えます。(*5)

さて、次はすぐそこにある堀越御所跡です。

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例によって草原ですが、かつては池などがあり割と荘厳な建物だったと言えましょう。それもそのはず、堀越御所は「室町幕府の」出先機関だからです。

場所は近いのに300年ほど時代がずれます。これは戦国時代の最初期の遺構なのです。

ところでまずこの説明をするにあたって、室町幕府の関東地方の支配体制を説明しておきます。乱の名称と細かい流れなどは注釈(*7)を参照してください。室町幕府は、前時代まで幕府があった鎌倉(*6)に、関東を統括するため鎌倉公方をおき、その補佐として関東管領をおきました。いわばミニ幕府、仕組みもそっくりです。その鎌倉公方の初代が足利尊氏の四男・足利基氏関東管領は上杉氏で、いずれもそれぞれの子孫が世襲しました。しかし、その関係は良好とは言えず、①関東管領上杉氏憲鎌倉公方足利持氏に反乱を起こしたり、②今度は幕府が持氏を滅ぼしたり、③その子の鎌倉公方の成氏が関東管領上杉憲忠を殺したりでまさにカオスでキナ臭い世の中になったのです。実際、関東の戦国時代はこの頃から始まったと言えます。(*7)

さて、堀越公方は上記の③にあたる、成氏が関東管領を殺したという出来事をきっかけにできたのです。成氏が関東管領を殺したのち、室町幕府の追討軍から逃れるために茨城県の古河に逃げます(古河公方)。その追討軍を率いたのが足利政知で、伊豆のこの場所に拠点(=御所)を置きました(堀越公方)。こうして、関東を取りまとめる鎌倉公方は古河と堀越に分裂し、同様にして関東管領の上杉家も扇谷・山内(*8)に分裂し、それぞれお互いに争っていましたが、この後堀越公方北条早雲(*1)が攻め込んできて滅ぼされます。結局北条早雲が漁夫の利を得たみたいな状況ですが、とにかくカオスだったわけです。

堀越公方自体割と渋い感じのところですが、関東地方における戦国時代の起こりを(勉強すれば)感じられる場所だと思います。

さて、まとめとして、伊豆は東京や横浜から日帰りで行ける温泉地だということがわかったので、ゆっくりしたい時にはぜひ行きたいと思います。また、今回ほとんどスルーした『伊豆の踊子』(川端康成)や石川さゆりの「天城越え」を辿ったりしてみるのもいいなぁと思ったりしています。実際、天城峠や浄蓮の滝は修善寺から南に、河津の方に行くとあるのです。

 

注釈

(*1)北条政子から鎌倉幕府の執権になった北条氏と、戦国時代に堀越公方を滅ぼし小田原城を拠点とした北条氏は血縁関係はない。拠点から、前者を伊豆北条氏、後者を小田原北条氏と呼んだり、あるいは特に後者の北条氏を後北条氏と呼んだりするが、その初代・北条早雲は伊勢宗瑞が名乗った名であり、堀越公方を滅ぼした際も伊勢を名乗っていた。

なお、後北条氏堀越公方の征討後、関東8カ国(常陸・上野・下野・安房・上総・下総・武蔵・相模)と甲斐・伊豆を勢力圏にした大勢力となる。

(*2)将軍は初め藤原摂関家(九条家)から迎え、のちに皇族から迎えるようになる。前者を摂家将軍、後者を皇族将軍と呼ぶが、いずれも皆20歳ほどで退任させられている。

(*3)例えば安達泰盛平頼綱など。これにより、北条氏の専制政治(得宗専制政治)が成立。

(*4)初めは北条高時にちなんで足利高氏を名乗り、後醍醐天皇の信を受け尊氏(後醍醐天皇の名・尊治にちなむ)に改名。

(*5)承久の乱の前までは、東国は鎌倉幕府が、西国は朝廷がそれぞれ支配する形だったが、朝廷が敗北し、朝廷側の土地は幕府に没収され、朝廷監視のため六波羅探題が置かれたことで、朝廷は軍事行動が取れず幕府に干渉される形になったということで、幕府(北条氏)の全国的支配が成ったと言える。

(*6)前の幕府があった場所ということは、前の幕府に忠誠を誓っていた武士の言わば聖地になりうるということが考えられる。それを抑えるために置かれたと言えよう。

(*7)鎌倉公方と上杉氏の対立について

上杉氏憲足利持氏に起こした反乱:上杉禅秀の乱上杉氏憲足利持氏に不満を抱いていた。

室町幕府足利持氏を滅ぼした:永享の乱。6代将軍の足利義教は将軍権力の強化を図り、独立志向の強かった鎌倉公方を力づくでも抑えようとした。このために上杉憲実と足利持氏の対立を利用し、憲実側に幕府がついた形といえる。なおこの後、持氏の遺子を擁して結城氏朝が茨城県の結城城に籠城するという一悶着が起きた。これを結城合戦という。

③成氏が上杉憲忠を殺した:享徳の乱。この時点で1454年頃であり、これ以降関東地方では戦国時代に入る。一方、京では室町幕府に対して、借金の帳消しを命じる徳政令を要求する徳政一揆が頻繁に起こっていたが、京での戦国時代の突入は1467年の応仁の乱以降といわれる。

(*8)本家と分家の分裂。鎌倉の扇ヶ谷と山内に住居を構えていたのでこう呼ばれる。なお、扇谷家は後北条氏との戦いで戦死、山内家は後北条氏に追い詰められ、戦死や自害こそしなかったものの、その座を上杉謙信こと長尾景虎に譲り、守護代による下剋上が果たされた。