とあるツイ廃のブログ

ツイ廃が140文字で抑えきれないなにかをただかきつくるもの

山梨旅行記

コロナ禍ですが、マスクを外さない、隙あらば手を洗うなどの対策をしたうえで山梨に行ってまいりました。ちなみに10日経ちますが、今のところなんともありません。

まずは山梨県立美術館です。山梨県立美術館はミレーの『種まく人』や『落ち穂拾い』といった作品を収蔵していることで知られていますが、私が行った時にはクールベの作品展もやっていました。

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ミレーの『落ち穂拾い』は春夏秋冬があるらしいですが、ここに収蔵されているのは「夏」で、背景に積もった稲穂の山がほんのり赤く照らされています。さてこの落ち穂拾いとは何かと言いますと、もともと聖書にある故事で、裕福な農家が貧しい農民のために、穂をあえて全て摘み取らないで少し残しておくということだと風習のことで、ミレーはバルビゾンに来てその風習が残っていたことに感激したらしいとのことで、この作品を描いたらしいです。そもそもミレー自身そういった農民の絵をよく描く画家ですが、特にこうした貧農をあえて描くといったことは極めて前衛的であったので、当時の保守的なサロンではあまり評価が高くなかったということです。また、同じことは「種蒔く人」にも言えることで、やはりこれも農民の絵である点で評価が芳しくなかったのです。(と言っても例えばブリューゲルみたいに、ミレー以前に農民を描く画家はいたのは事実です。)

無論今では、ミレーのその画風、特に光の当たり方などに印象派の先がけを見出され、ミレーの評価は当時とは、特に日本においては全く異なります。日本ではこのように、山梨県立美術館が中心的にミレー作品を収集しています。

なお、写真に上がっているようにクールベも、ほぼ同時期の画家です。クールベは特に海をよく描いているような印象があり、もしかすると今回の展覧会がたまたま海ばかりだけだったかもしれませんが、暗く、しかしリアルな海の描き方が印象的でした。

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さて、今度は甲府城です。甲府城舞鶴城(もちろん京都の、港が有名な舞鶴ではない)とも呼ばれます。甲府駅のすぐ目の前にあり、甲府盆地の中で少し高い山(岡かもしれない)の上に建てられているという平山城です。そのため、上るのはすこし大変ではあります。2枚目の門の写真は鉄門と言われますが、2013年に復元されたものです。実際、甲府城に限った話ではありませんが明治時代に多くの城が破却されていまして、それゆえに甲府城には城らしい城の跡が残っていないのです。従って今の甲府城は石垣を除いて復元されたものではあります。

さて、甲府と言えば武田氏、特に武田晴信、信玄、勝頼の戦国大名が有名ですが、武田氏はこの場所に城を建てたわけではなく、この後出てくるように躑躅ヶ館を拠点としていました。この甲府城は、徳川家康の対抗のために豊臣秀吉の命によって建てられたと言われています。織田信長徳川家康と同盟を組み、家康は三河以東、とくに当時強かった後北条から織田信長を守っていたわけですが、本能寺の変ののち徳川家康はそのまま三河以東、特に甲府あたりを領有したのです。すなわち家康は力をもっていたわけで、豊臣秀吉の全国統一に際して、さっくりいうと邪魔だったわけです。しかし、小牧長久手の戦いを経て家康は秀吉に服従し、さらに後北条氏が小田原落城で滅んだものの、甲斐は徳川家の領地のまま残ったのです。

江戸時代になると、甲府城徳川義直とか忠長とといった徳川家が入るようになります。特に、5代将軍の綱吉は甲府城主の綱豊を養子にするなどしています。しかし、このように養子にとったことで甲府城側用人柳沢吉保の手に移ります。柳沢氏は祖先が甲斐出身だったからというつながりとのことでありますが、その子が大和郡山城に入封されると今度は幕府の直轄地になりました。

時は流れ明治時代、中央線の開通や山梨県庁の設置などで甲府城はどんどん削られ、史跡の公園として現在に残っている部分となります。

実際上ってみると、やはり高台にあるので、かつては甲府盆地を一望できたんだろうなとか思います。さらには、盆地の山の隙間からは富士山も覗くなどしていました。

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さて、次に武田神社に行きました。今でこそ武田神社という神社にはなっていますが、かつては上述のように、躑躅ヶ館の跡です。躑躅ヶ館は武田氏の居館としてありました。

ところで居館とは、普段当主が住み込んで拠点としているところです。躑躅ヶ館は地理的にみると、いくら盆地にあるとは言えども平地にあります。すなわち、攻め込まれると守りようがあまりにも少ないので割と危険です。そのために詰城というのがあります。躑躅ヶ館の詰城は躑躅ヶ館の北方の山にある要害山城という山城があります。私はいきませんでしたが、本当に山奥のほうで登るのに一苦労する程度なので、なるほど防御もしっかりしていると思います。

武田神社は祭神として武田信玄が祭られています。さらにその性格上、武田家の様々な物品を保管している宝物館もあります。興味深いのは手水舎の水汲みが武田家の家紋の菱になっていたことです。すげえ推すなあなどと思いました。もう一つ、手水舎には算額がかかっていました。実物を見るのは初めて(と言っても割と最近作られた物ではある)でした。
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甲府に一泊して翌日、小雨の降るなか身延山に行ってまいりました。

甲府からは同じ山梨県内といえども結構遠く、かといって静岡からもそれなりに遠いという、山の中にあります。

駅を降りてバスなり徒歩なりで身延山に向かうと、バスからだったので撮ることはしませんでしたが最初に総門が見られます。そこから境内(?)に入ると、典型的な門前町が並びます。

門前町はその名の通り寺の門の前に栄える商店街です。身延山では日蓮宗総本山ということで、巡礼や参拝目当ての客が多数あります(今回行ったときはほとんどいませんでしたが)。そうした相手に商機が見いだせるというので、飲食店街や土産物屋が数多く並びます。ちなみに、神社前に広がる商店街を鳥居前町と言いますが、これは例えば伊勢神宮の宇治山田とかがそれに当たります。

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参道や門前町を抜けると、いよいよ久遠寺の本体にたどり着きます。こちらは三門です。それをくぐると菩提梯とよばれるやたら急でなおかつ287段もある階段が出迎えます。クソくらえバリアフリー…というわけではなくて、門前町で脇に逸れる道があって、そこから駐車場にいたる道がありますので、そっちに行けばよいわけです。

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菩提梯は287段ありますが、287段は「南無妙法蓮華経」(日蓮宗聖典)の7文字に合わせて、7分割されて踊場に当たる広い段があります。しかしまあなんと疲れることで、上に登りきることはできはしましたけれども、ど真ん中で下りるにも上るにも二進も三進もいかないような状況になりかけた程度には大変な階段でした。多分晴れた日だったらそんなでもなかった気はしますけれども、雨だと段が滑りそうになるくらいですからなのでなおさら大変です…という方のために、脇道があって、これはこれで急な坂ではあるのですが、一応階段よりは楽なルートもあります。

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登り切ったら目の前に本堂があります。先ほどの階段は登り切ったら悟りが得られるなどという話はありますが、正直疲れたという感想だけしかありません。

ところでこの本堂の前に見える柱は回向柱と言いますが、そこには紅白のひもが垂れており、そのひもは、久遠寺の場合は本堂の中の日蓮上人の像とつながっていて、触れ合えるというものです。その昔池上本門寺に行ったときもあったような気がしますが、もしかすると日蓮宗に限らずなんかの記念のときに建てられる(例えば信濃善光寺など)ものなのかもしれませんが、よくわかりません。

さて、身延山久遠寺は、言わずと知れた日蓮宗の総本山です。日蓮宗と同じ時期にできた仏教は俗に鎌倉仏教などと言われますが、例えば曹洞宗は福井に永平寺や、浄土宗の本願寺(今では東西に分かれてしまった)などがあります。

日蓮宗は開祖が日蓮であるというのは言うまでもないわけで教義などは省きますけれども、すが、当時から活動は割と積極的な、あるいは過激な宗派だったと言えるでしょう。例ば時の執権・北条時頼に『立正安国論』を提出するなどしていますし、室町時代の日親は不受不施などを唱えるなどしています。しかし、その総本山は中部地方の山奥の身延山だったわけです。なぜここに落ち着いたのかというと、そういう積極的な政治への関与とその拒絶から鎌倉幕府に嫌気がさしたために、身延に移ったというわけです。そこにいる間は端折りますが、最晩年は病をして、湯治に行こうと常陸に行こうとしたところ道中でついに力尽きてしまったわけですが、その道中というのは東京にある池上本門寺の場所(当時は池上氏の館だった)ということで、今の池上本門寺日蓮宗大本山で、付近にある洗足池の名前は日蓮が休んで足を洗ったからという話に由来すると言われ、さらに池のほとりには日蓮宗の寺院があるなどしています。

久遠寺自体は並みの寺ほどの大きさに見えますが、実際は身延山全体が日蓮宗の関連施設です。すなわち、本堂のみならず各時代の法主塔頭を建てまくったりしているので広いところではありますが、私はすこぶるくたびれていたので行きませんでした。一方で久遠寺の建物自体はたびたび焼失していることもあり、歴史はある寺院ではあるものの施設は新しい感じでした。また、本堂の向かいにはきれいで立派な納骨堂などがあり、全国から遺骨があつまっているようです。

さて、山梨の旅ということで、書くのに1か月かかってしまいましたけれどもこのような旅をしていたのであります。時期柄、感染予防は十分やってまいりまして、1か月たってなにも症状が出ておりませんし、山梨でも感染者数は増えていないので大丈夫だと思います。これからも様子を見ながら旅行に行けると思うので検討していきたいです。

小話

1日目の午後にズボンが股間で破れたことに気付いて修羅場になっていた