とあるツイ廃のブログ

ツイ廃が140文字で抑えきれないなにかをただかきつくるもの

ひねくれた考えの煮こごり② 〜マナー〜

連載ではないです。よくマナー講師なんとかが本当にどうでもいいマナーなるものを(きっと利益のために)広めようとしていると思われますが、どうでもいい見解を申し上げます。

さて、マナーというのはそもそもどういうものなのかということから見直してみたい。マナーというのは要するにお作法、つまり見ている(あるいは行動を受ける)側が不快にならないような行動をいうわけだが、結局されて快感を覚えるかどうかなんか人によりけり、あくまで自分自身の教養に基づいて相手の気持ちを推量するのがいいところで、決して人に強要するものでも共用されているものでもないはずなのだ。臨機応変一人一人の状態に合わせたマナーというのが求められるべきで、マナーには合理的な理由があり、だからこそそれとともに教わるものだと私が勝手に思っているのだけども、いわゆるマナー講師のいう「マナー」はそういうのを画一化し、しかも大概無駄なものである点でどうかと思われるところだ。

マナーの一例として、ハンコを押すマナーなるものがある。有名な話だが一応説明すると、「上司には低頭になるようなハンコを押せ」つまり斜めにしろというのだ。実に馬鹿馬鹿しいこと限りないものだで、意味のないものだと思う。マナーは規定すればいいというものではないと思うし、しかも強要されるものではないという点で、これはいかに無駄なことかといえよう。ただ手間がかかるだけだ。「儒教的」な面、しかも曲解されにされて「とりあえず人を敬え」みたいな面があると思うが、しかしお互い「儒教的」考え方を持っていればそんなことしなくてもいいはずなのではと思うのだが。

イカニモ」それっぽい感じで言われるからみんな信じてきっとあるものだと思ってしまうのだろう。しかし、そんなもの時代と地域が変わったらむしろ迷惑限りないものであるということがあり得るかも知れない。それがまさに蕎麦の話である。音を立ててすするといいと言われている蕎麦だが、例えばスパゲッティなんかはフォークで丸めてから、塊状にして食べるわけで音を立てないし、そもそも音を立てる食い方なんかしたら服が汚れてしまうという合理的な理由がある。一方で蕎麦をすすって食べる場合は、すすることで音、空気を一緒に口に含んでより美味しくなるという、嘘くさく感覚的だがそこそこ合理的な理由がある。

この「合理的」というのがマナーの重要な点でもあるというのは先ほど述べた通りで、よく言われるレストランでのフォークとナイフの置き方、これはやはり給仕の人が皿を持ち運びしやすいように、食べ終わったら皿の中に入れてしまうわけだし、あるいは席を一時立つ場合に両端に置いておくのは見栄えやマナーという観点よりも、戻ってきてすぐに食べられるようにという理由から生じたものであると考えることが自然だ。

つまり、マナーは心理・相対的な根拠も確かにあるかもしれないが、それよりも行動・絶対的な根拠がまず先にあるものなのだ。そこから派生して、やや飾りのようにその合理的所作が「美しい」というように認められてきたというものであると考える。しかし、マナー講師の教える「マナー」というのは、全く合理性がなく、せいぜい心理的に気持ちがいいという、どこでも変わりうるような相対的根拠にだけ基づいた全く意味のないマナーであるということを主張しておきたいのだ。

 

ひねくれた考えの煮っころがし ①〜ヴィーガン〜

ニュースだのその他諸々を見て思うことを書き転がしていきます。ただの所感なので無知もあってひねくれた考え方ばかりしているのでご承知おきを。

 

菜食主義者ベジタリアンというのがいます。別にベジタリアンが悪いというわけではないんです。なぜならば、野菜は体に良いと考えられるからで、そのような健康面における菜食主義というのは別になんともありません。個人の勝手だ。いわゆる極端な菜食主義者、いわゆるヴィーガンというのはまた別の話です。一部の宗教においては肉食の厳禁を教義としてあるところがありますけれども、それはまあ別としますよ、炎上めんどくさいので。それにしても勝手にやっている分にはなんでもない訳ですが、しかしそういった宗教ではないけれども、一種のヴィーガニズムの信仰というので私が思ってしまうのはまず第一に主張が根拠薄弱といった所です。

いわゆる人工と自然ってのは対立した概念だと思われているところですが、しかし人工といえど、例えば狩りによって得た獲物というのは果たして「自然」なのではないかと思うのです。つまり人間が狩ることによって自然が保たれる、すなわち人間が食物連鎖の一部にあるということです。その点からすると「自然を守るための」ヴィーガンというのは本当なのか疑問があるところです。

もう一つ、最もよく言われるところですが、「家畜を殺すのは非人道的だ」というところです。たしかに家畜も一つの生命、我々と同じ命を持っているのです。私もそこには共感します。しかし考えるべきは、その家畜ははっきり言ってしまうと「殺されるために生まれてきた」と言えるということです。その生まれてきた目的を否定することは果たして人道的と言えるのか?しかしきっと「殺される方が非人道的だろう」と考えるのも多いだろうからそこで一つ物申すと、ではなぜ「すでに殺された後の肉を食べない」という全く筋の通らない行動をするのかということです。殺されていれば意味ないだろうにと常に思うんですが、だったら自分らが屠殺場の廃止禁止を呼びかけるくらいしても良いのではないかと思うんですが、しかしそれをされると私みたいな肉食肯定論者が全力で反論しにかかるので結局意味がないことでしょう。

さらにこれに関してもよく言われますが、「人間と同じように家畜も命を持っている、だから植物を食べよう」というのも実に筋が通らない話です。どっちも生物ではないのでしょうかね。生物は命を持っているのです。それは植物も動物も全く変わらないはずなのですがね。ヴィーガニズム信者というのは、命の差別を無くそうとしているように見えて実は強烈な差別を行なっているのです。その点我々肉食を肯定する人というのは、食肉にしろ植物にしろ等しく食べるわけで、差別というのはないのです。「人間と家畜の命の差別であって植物と家畜ではない」とかいう反論は全く一笑に付されるべき問題で、なぜならばそもそも「物を食べる」時点で命をいただいていることは全く変わりがないからです。それでも反論を通そうというのであればなんかのウイルスだの鉄だのでも食ってろというべきかもしれませんな。要するに馬鹿馬鹿しいのです。

 

お題から

今週のお題「平成を振り返る」に基づきまして考えます。

私は平成生まれ(何年とは言わんが)で、思い出も何もいままで平成と生きてきたわけだから、平成が人生であると、そういうわけです。すなわち、平成を振り返ることは人生を振り返るということを意味しますので、自分語りをすることになります。

さて、私と同年代というのはちょうど20世紀と21世紀の間の世代で、(っていうとばれるがね)実は私はぎりぎり21世紀生まれです。したがって20世紀というのを知らないわけです。20世紀といいますとすでに「歴史」の中で出てくる世代に当たります。しかし、そんな20世紀、時代は明治、大正、昭和、平成の4元号がながれ、そしてその100年間に時代は大きく変わっていった、そんなことは目に見えていますが、しかし私が思うのは平成の、たった(?)30年、の間でもじつは大きく変わっているということです。平成元年では、果たして我々の誰もがこうしてパソコンやiPhoneをもち、どこでもインターネットが使えるという状態を想像できたことでしょうか。実はそこは私も結構思うところで、少なくとも私が小学生のころ、つまりは10年位前、ニンテンドーDSiのころでしょうか、wifiコネクションなるものがあったわけで、当時の私は「なんぞこれ」などと思っていたものです。当時もインターネット自体はそこそこ普及していた(ただし有線)と思いますが、しかしここでいうように無線LANというのはやはり一部にしかないものであったと思います(マ●ドなどにはあったけどね)。しかしそれから10年、無線LANは当たり前のものとなるばかりか、そんなのなくても3G,4G回線などが出現して、街中どこからでもiPhoneの類を通してすぐに調べたいことが調べられるようになった、そういうことは(まだガキンチョだったからわからなかっただけかもしれんが)思いもしなかったわけです。(これも多分携帯電話は前々からインターネットにつながることを知らなかった私がガキンチョだっただけかも知らんが)

ここに関して私はしばらく前から思っていることを述べさせてもらいますけども、ここも私のガキンチョだった時分の補正がかかっているともいえるかもしれないことはあらかじめ断っておくとして、2010年代、特に2011年には日本社会が大きく変動したような気はしていますが、果たしていかがなんでしょうか。インターネットもそれ以降急速に普及した気がするのですがね、ただ世間知らずなのか記憶違いなのかもしれませんけども。それにしても何かしら転機になったことは相違ないと思われます。

さて、ここまでインターネットの発展のことしか述べておりませんが、それ以外で平成を振り返ってみたいと思います(歴史的観点ね)

長い長い激動の昭和、それはクーデターもあり、戦争もあり、そして戦後の経済の急成長があり、そんななか時代の歪みも多々おきた、そんな時代でした。1989年、その昭和が終わり、平和なままで平成になったのち、日本国内は概ね平和であった(といってもサリン事件などがありましたけどね)と言えるでしょう。一方で災害も、特に都市部におけるものが多かったといえるかもしれません。阪神淡路大震災岩手県内陸地震東北地方太平洋沖地震、あるいは豪雨災害などが多くなった時代でもありましょう。防災意識が高まった時代でした。そういう点で、復興を願うと共に、防ぐことはできないまでも、被害を最小限にする努力は日々行われるべきであると思います。

新しく迎える令和の時代、私が求めたいことがいくらかありますが、一つは平和を希求すること、一つは健康でいること、一つは社会の変革、一つはさまざまな分野の発展発達です。急激にではなく、緩やかに行われるべきで、そのような発展を日本に期待しつつ締めと致します。

 

生きる目的とは

twitterで最多得票を得たうちの片方「生きる目的」に関して考えてみたいと思います。テキトーに思っていることをテキトーに書き繕っているだけなのでおかしくても気にしないでね。

まずは「目的」というものの性質を考えてみます。例えば、「ガラナを飲む」という目的(というのか欲求というのか)を仮定しましょう。ガラナを飲むという目的のためには、まず「ガラナを買う」という行動の達成が必要です。そしてその目的のためには「セコマに行く」「北海道フェアに行く」「北海道のスーパーに行く」の類の目的(いわば手段)が生まれ、無論そのために「金を得る」という目的が生まれ…と、目的というのは1つの目的の達成のために生み出されるもの(これは手段ともいえる)であるといえます。

さて、では「生きる目的」とは何かを考えてみましょう。端的に言うと、「死ぬため」であると思われます。綺麗ごとなんか言いませんよ、それが人間、ひいては生命が行き着く先であり、それこそこの世に生を受けた以上必然として訪れるものだからです。しかし、これは果たして「目的」と言っていいのか?これに関して考えると、実は先ほど述べた「目的」とは性質が明らかに異なります。前者は能動的(生きている我々)によって決定されるものに対し、後者は受動、しかも強制的に決められているのです。したがって生きる目的を「死ぬため」と足早に決めつけるのは微妙なところといえます。

別の角度から異論を提示してみましょう。異論ということはさまざまに考えることができます。つまり、「金持ちになるため」「後世に名を残すため」etc...といえるものですが、それに則って私の好きな説で考えてみたいと思います。いわゆる「水槽の脳」説というのがあります。これは、この世界は培養液かなんかに浸された「私」(の感情思考その他もろもろを持つ何か、すると別に脳でなくてもいい気はするけどね)が、いわばバーチャル・リアリティ的に、電位信号で様々なものを知覚している世界であるというもので、私が勝手にそこから話を発展させると早い話、この世界は幻想(あるいは夢)だということです。考えてみていただきたいのは、我々が今生きている世界は果たして「現実」なのか?いや、我々がいて、こんなくだらなくつまらねぇ文章を飽き飽きしながらも読んでいる時点で現実だ、なんて言えるでしょうけれども、それも電気信号かなんかで見せられているだけの仮想かもしれません。…というといわゆる電波系と思われるかもしれないが、そもそもこの世界が「存在する」というのは先験的なもの(ア・プリオリなんていうらしいが)といえるのか?つまりはこの世界を知覚し、認識している我々がいなかったらこの世界はなかったのではないか、と私は勝手に思っているところです。実に自己中心的(よく言うと独我論とかいうらしい)考え方ですけどね。ところで、そもそもこの世界を先験的なものにしておかないとこの世界のあらゆる話は成り立たないといえることになるかもしれないが、先験的である証明ってできますかね?例えば「歴史」、これも、そういう事実があったというバーチャル・リアリティを見せられているだけで、実際今ここに生きる私の本質的なもの(水槽の脳)は存在を知りえないのではないかということができるかもしれない。

さて、延々と述べたが、私の「生きる目的」は端的にいうと「楽しむため」である。なーんだそんなことかと思うかもしれないが、上にテキトーに書き繕ったものからわかる通り、我々がこの世界に生まれ、この世界で暮らしているという理由なんかはっきり言ってわからんのです。因果を超越したそれこそ神の思し召しである、というと言い過ぎになるが、それこそ「現実」というバーチャル・リアリティを毎日やっているわけで、そんでもって最終的に「死ぬ」という真理があるわけです。したがってそんなの忘れてなんでも楽しんで生きなければもったいないというわけである。

桜と聞いて

今週のお題「桜」

ブログは1日1記事なんて決めるわけないじゃないですか、思い立ったらいくらでもやりますよ。

さて、桜と見かけたものでふと思い出したことで、魅力度最下位をひた走る茨城県、それもヤンキーの生息地の西のほうの話です。

筑西市というところがあります。そこに五行川という川が流れているのです。何をもって五行というのかは全く分からないところですが、流域には伊佐城という城があって、ここから仙台藩につながる伊達氏が出てきたところですし、もう一つ下館城という城があり、先の伊佐城が中館、もうひとつさらに上流に上館(久下田城か?)があり、これらは平将門の乱で将門と対抗した藤原秀郷の築いた城だといわれているところです。その川の土手には桜並木、また土手には菜の花が咲き乱れ、その方向を見てみると一面に田園風景広がる実に田舎らしい風景です。

 

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ぜひ行ってみるといいと思います

新元号に関する考察

去る4月1日、5月以降の元号である「令和」が発表された。そこで、様々な意見飛び交うこの元号に関して、私見を交えつつ考察してみたいと思う。

①「令和」の字に関して

令和というと、「命令の令」と言って説明するのが多い。やはりそこに違和感を感じるのは多いようであり、確かにそれはそうで、令の字はやはり人に何かをさせるという意味合いで用いられていることが多いのだ。しかし考えてみると、「令嬢」「令月」という用例(後者は特に出典における用例である)もある点で必ずしもすべてそうだとは言えず、つまり「良い」「素晴らしい」という意味合いを含むのである。中国語においてもどちらの意味合いも持つ。つまるところ「素晴らしい和」とかいう意味合いになるということであり、仮に命令しているととらえても、「和をもって貴しとなす」的意味合いを感じとることができるから良いと思うところである。第一、出典の意味合いは「素晴らしい」の意味合いなのだからそれに則って考えられるべきである。逆に考えてみたいことは、和を令されない(令されたくない)ということは和でない状態を望むということを暗に含むことと言えるように思われる。ところで、「巧言令色鮮し仁」(口達者とか脚色取り繕いあたりがうまいのは「仁」が少ないという意)に通じるからよくないなんてのも見るが、これは言いがかりに等しいものである。これに文句をつけるのであれば元号の最多出現を誇る「永」は「永眠」を想起させるし、また、そこそこ多い「享」なんかは「享年」を想起させるわけだから「令」のそれは実にばかばかしいイチャモンである。

②選考などに関して

元号は殆ど中国古典(春秋、論語詩経易経礼記などのいわゆる四書五経、あるいは漢書、隋書などの歴史書など)を出典とするものが多いが、令和に関しては日本の古書である万葉集から引用された。日本の古書に出典を求めるものは過去存在しなかった点である程度異例といえることは確かだが、しかしそれでもたとえば和銅武蔵国から銅が発掘されたことを祝う(和銅銅山、秩父市にある)もので、出典はないという点で実際出典は何でもよいものであることは明白である。(あくまで傾向があるというだけである)ここに関して、先のような中国古典から引用するのは伝統だから崩すわけにはいかないというのはやはり違うものである。一応補足すると、万葉集の当該箇所がそもそも引用であるという話で、いわば孫引き状態であるが、しかしそれでもやはり中国古典からの引用であるといえなくはないことは述べておく。これにもやたらイチャモンをつけるのがいるが、孫引きでも直接引用したのは万葉集である点でたいしたことはない。

さて、ここまでおおむね新元号に関して賛成の立場をとってきたわけだが、それでも一つ疑問があり、出典は「すげえいい春の日ですね」(超ガバガバ要約)というので果たして国の願いたる元号(過去の例なんか見ても出典の文を読めばその真意がわかるようなものである)に対しては果たしてどういうことなのかと考えてしまうところであるが、しかしそれでもやはりよく言われるように、令和年間が良い年になることを祈るばかりである。

 

 

春先

春は花粉症なので外に出たくない。従って旅行なんか行く気は無い。以上。

 

 

 

 

 

というと終わるのでちょっと増やします。花粉症とは言っても、実は鼻だけです。目の方は、実は昔はあったけれども最近はないのです。あったとしても適当な目薬でよく効きますのでご参考までに。多分鼻から目に及んでいたのではないか、とも思いますがね。それにしても鼻はどうしても良くないのです。鼻、とは言っても鼻水に関しては鼻炎薬クニヒロがすげぇよく効くのです。ただし喉が渇いたり乾燥したりするけれども。ところが厄介なのが鼻詰まりでございます。鼻の粘膜が腫れ上がって鼻呼吸ができないのです。これが一番きつい。特に私はすするので後鼻漏が起きて喉も痛いのです(すすらなけりゃいい話ですがね)。しかも鼻詰まりなのでなんだか知らんが眠くなるし、詰まって鼻水も出るので鼻にティッシュを、まさに鼻血が出た時の要領で突っ込んでおくわけですが、これでくしゃみも出る。くしゃみが出ると鼻詰まりは少しだけ良くなる気がするが、すぐにまた詰まってしまうのでいいのだか悪いのだかよくわからない。ただ、少なくとも着実にエネルギーを使っているので、眠くなるし腹は減るし、これで体重と体脂肪が増えていく、ということである。なんと嫌なことだ。杉の木を全部燃やしてしまいたいくらいのものである。

ところで、粘膜ということはさっさと焼いて縮小して仕舞えばいいというわけで、去年までさっぱり焼いていたのです。おかげでスッキリしていたわけですが、今年は忙しかったのでなんだかんだでやらずにいたらこのザマだ、めんどくさいと言ったらありゃしない。ちなみに鼻の粘膜を焼くのってどうなのかと言いますと、別に焼いても何もないのです。焼くときには麻酔を含んだガーゼを鼻に突っ込むので、それが痛いの痛いの、あと喉にも回って感覚がなくなるくらいですが、焼いている時は全く痛くなく、ただ焼き鳥っぽいような、つまりはタンパク質が焼ける匂いがするだけです。鼻粘膜の焼却は、話によると2、3年持つって言いますけれども、私は回復が早いのかは知りませんが毎年やってます。多分瘡蓋みたいなのを、どうも気になるから、鼻息の勢いのあるのでフンっとやってべろっと出してしまうから良くないんだと思いますが。でもこれが実に気持ちいいのです(見た目は非常にグロテスクだが)。ちなみにこの時は瘡蓋だけあって出血はあまりしません。

もう一つ、根元治療だかなんて言うんだか知りませんが、舌下免疫療法とか言うのがある。曰く、杉アレルギーを杉花粉の直接投与で直してしまおう、という、まさに毒をもって毒を制す的考え方のもので、効果は効くか効かないかで50%50%らしい。よく知らんが。ただ、期間が長いのとめんどくさいという欠点がある。さあ困った。私はまさにそういう奴なのだ。重いから受けてもいい。しかし、それとは別に金もかかるから…というのでどうしようもない。

一つ案があり、春先だけ杉花粉の影響がない場所に行く、いわゆる疎開である。旅行好きにはいいが、学業職業に支障をきたしてしまうのが問題であるからして、そういう影響のない職業をしたい。兎角、今ここにいる以上花粉は猛威を奮っているので、外には出たくないと、そういうことなのです。