とあるツイ廃のブログ

ツイ廃が140文字で抑えきれないなにかをただかきつくるもの

今更旅行記 ~沖縄・与那国・八重山諸島~

今更旅行記、今回は11月に行った沖縄でございます。
特に与那国島は、金銭的にも時間的にもその他諸々の理由で行くことが困難な離島であるという点において殊更に共有するべきだと考えたので今更書き始めました。

1日目:那覇

夜遅くに羽田を出発して到着した那覇空港は、11月だというのに湿度が高く暑かったものであります。
那覇空港ゆいレールと直結しており、「日本最西端の駅」という地位となっています。なお隣の赤嶺駅は「日本最南端の駅」らしいです。

初日は、せいぜいこれとご飯を食ったことと国際通りを徘徊したくらいのことしかしていないので、これ以上書くことがありません。

2日目:与那国へ

さて、本題その1である与那国島の話になります。
この日は国際通り琉球行列の祭りをやるというので、それを見てからいくか大いに迷ったのですが、今回与那国島へ行かないと後悔する気がしたのでさっさと出発してしまったのでした。もう少し日程が緩ければ行ったんですがね…
那覇空港でちょっとした買い物(主に土産や食事)をして、与那国島へ出発です。どうでもいいことに、那覇空港から出発するときの隣のカウンターはかの有名な大東島便でした。今度時間があれば行ってみたいものです。f:id:unknownhuman12340:20240329215446j:image
閑話休題那覇から与那国への1時間、普通の飛行機より少しばかり座席が広い気がしたプロペラ機に乗って与那国空港に到着です。

1 与那国島の地理・交通事情

1-1 島の概説f:id:unknownhuman12340:20240329215803j:image
1-1-1 島の地理
言わずと知れた日本最西端の島・与那国島は、石垣島から約100kmの距離に位置しており、行くには小さい航空機か船かという感じのの距離感です。(目安として竹芝桟橋から伊豆大島までがだいたい100km)与那国島からは、石垣島より台湾に近く、島の西部の久部良中学校からは、秋の晴れた日には台湾が見えるといいます。島は周囲30km程度、遠浅のサンゴ礁広がる他の八重山諸島の島々とは異なり、周囲は概ね崖に囲われています。f:id:unknownhuman12340:20240329215844j:image
したがって島の起伏も激しく、島全体として平地は与那国空港と集落の海岸線周辺くらいではないでしょうか。
島には3つ集落(町名ではない)があり、北側東部には最大かつ町役場などがある祖納集落、南部の中央には比川集落、北側西部には港で栄える久部良集落があります。それぞれの集落には商店があり、価格はコンビニ程度ですが食料品が調達できます。人口はその3箇所に集中しており、小学校は各集落に、中学校は祖納・久部良にあり、高校は島内には存在しません。かつてはさらにもう少し集落があったようですが、現在はこの3つだけとなっています。
これら以外の場所には人がほとんどなく、与那国馬という在来馬が放牧されているところとなっています。f:id:unknownhuman12340:20240329215557j:image
気候は亜熱帯ゆえに蒸し暑いです。長袖で行くと腕まくりをするか、さもなくば汗で濡れるかという感じの暑さで、しかも島内には集落外にほとんど自動販売機がないので11月でも熱中症になりかねません。
天気は晴れの日がかなり少ないです。私は3日間いたのですが、そのうち連日で2日晴れていたのはめったにないことだと思われます(しかし3日目は雨が降っていた)。また、晴れていたとしても突然の天気の急変があり、スコールかなんかで突然の大雨になることもありますが、これはすぐに止みます。しかし雨上がりの夜空は非常に美しく、特に冬~初夏には南十字星が見えるはずなので、それだけのために与那国島へ行く価値はあると思います。

1-1-2 島のアクセス・交通手段
島へのアクセスは、飛行機と船(フェリーよなくに)があります。
飛行機はRAC琉球エアーコミューター)が運行しており、那覇行が1日1便(那覇発は2便)、石垣行が1日4便(石垣発は3便)となっており、那覇からは約1時間で、石垣からは約30分程度で到着します。いずれも本数は多くない上に、客も小型のプロペラ機の割には満員にはならなかったので十分なのだと思います。ところで与那国島はカジキが有名らしく、カジキを飛行機に載せて運ぶらしいので、それ用の荷物室として機体の後ろ半分が充てられています。
一方のフェリーよなくには、飛行機より圧倒的に安い(4000円しない)ものの、毎週火曜と金曜の朝10時に石垣港(しかも竹富島などへ行く離島ターミナルではなくその対岸)に出港し、そして揺れることで有名です。与那国島は「どなん(渡難)」と呼ばれるように、気候や海によって到達するのが困難だと古くから言われており、それを検証するべく一度乗ってみたいものです。
島内の交通について、自動車(しばしば自衛隊関連の車両)が走っておりアスファルト舗装は概ねされています。祖納集落ではレンタカーや原付バイクを借りることができ、この道路を走ることができるほか、宿やレンタカー店で自転車を借りることができます(なお自転車は坂の起伏が激しいのでおすすめはできない)。なお、集落を出ると馬の放牧地となっており、その境界線には馬の脱出を防ぐテキサスゲートが設けられています。f:id:unknownhuman12340:20240329215631j:image幅約10~15cmほどの溝があり、そこを通る際にはパンクなどに気をつける旨がマップに記載されています。

1-1-3 与那国島の宿事情
離島には電話予約専用の宿が多いそうです。私も実際に与那国島に着いてから宿を取るかという無計画さ(現実としては楽◯travelで見つけられなかった)で来て、なんとか見つかったものの、宿探しには少し手間取ってしまったので、やはりあらかじめ予約してきたほうがいいですね。取れなかったら日帰りになります。

泊まった宿はネコチャンがいました。与那国に限らず沖縄は猫が多いのです。f:id:unknownhuman12340:20240329220028j:image
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宿は祖納に集中していますが、何軒かは比川や久部良にもあります。「日本最西端の宿」は久部良にあります。
ちなみにですが、宿に泊まる際には窓を締めていきましょう。南国ゆえにしばしば唐突のスコールがあって、雨が吹き込んできて全部濡れるので(実話)。

2 島の文化・信仰・住居

2日目はもっぱら島を自転車で疾走しまくっておりました。ママチャリを借りたのですが、起伏の激しさ故にやたらきつかったのを覚えています。そのなかで見た様々な興味深いものを紹介します。
琉球建築
与那国はやはり沖縄ということで、沖縄の赤い琉球瓦を用いた建物が多く見られるほか、入口にはヒンプンと呼ばれる石壁が立ち、邪の侵入を防ぐとされています。シーサーはいる建物といない建物がありました。

f:id:unknownhuman12340:20240329220123j:imagef:id:unknownhuman12340:20240329220218j:image
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また、石敢當も交差点に多く見られます。このように石碑状のものが多いですが、しばしば壁に埋め込まれたものも見られます。
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与那国民俗資料館
ちなみにですがgoogle mapでは「民族」になっていますが、看板などに見える正式名称は「民俗」です。f:id:unknownhuman12340:20240329220150j:image
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こじんまりとした資料館ですが、与那国島という一つの隔離された島に形作られた独特の文化・民俗・生活がよくわかります。また、館内はスタッフの男性が説明してくれ、資料も見せていただけます。

石垣島八重山博物館と比べてみても面白いですが、石垣島よりもさらに異なる民俗があります。2つほど挙げてみましょう。
1️⃣ カイダディ(カイダ文字)
与那国島にかつて存在した文字。明治時代に日本領となり学制のもと急激に使用されなくなりました。特に交易に関連する事物を象った表意文字で、それによる記録が資料館に残っています。なお与那国方言は話し言葉なのでカイダ文字とは異なりますが、方言自体は島の高齢の方と話せば特徴的なアクセントなどが見出すことができます。f:id:unknownhuman12340:20240329220305j:image

写真に見える本は『与那国の歴史』という本で、池間栄三氏によって著されたほぼ唯一の資料となりうるものと思われます。何を思ったか買わずに帰ってきたので後悔しているところですが…


2️⃣ 米軍占領期の道具
1972年まで沖縄は米軍によって占領されていたわけですが、与那国島も例外ではなかったわけで、そのころの道具が展示されています。私にはむしろ、米軍占領期の金銭レートの話が興味深かったのですが、沖縄本島与那国島はあまりにも距離が離れているためドルの価値が異なってしまったということで、それを段階的に変化させていったそうです。
なお、与那国島にはDiDi与那国交流館もあります。今回は訪れられなかったのですが、今度行く機会があればぜひ訪れたいところです。

 

御嶽
御嶽(与那国ではウガンと読む)は、一般的には南西諸島各地に見られる聖地で、日本領となってからは鳥居が設けられるなど神道との融合形態が見出されます。
ところで御嶽は、上述のように与那国ではウガンと読まれますが、よく知られる沖縄本島ではウタキと読まれ、石垣島竹富島ではオンと読まれるなど、かなり地域差があります。しかしいずれも聖地としての地位は同様で、入口には鳥居(ないところもある)、建物(ないところや自然に還りつつあるところもある)があり、そこで祭祀が行われます。
与那国島には御嶽が15箇所ほどあると言われていますが、特に主要とされるのが祖納集落にある十山御嶽とされています。f:id:unknownhuman12340:20240329220341j:image

鳥居をくぐると、広い敷地の中央に琉球建物の社があり、そこを起点に祭祀が行われるようです。
なおここ以外の御嶽も探してみましたが、おそらく石造りの小さな御嶽であろう建物こそあれ、自然に還りつつあるところも多く、これは与那国町でも取り組んでいる問題のようです。おそらくかつては集落ごとに存在していたものの、集落の消滅とともに失われたのかもしれません。
ちなみにですが、久部良集落の外れにある鳥居と社は、御嶽ではなく金比羅神社です。

浦野墓地群
祖納集落の裏手には、海に吹かれて荒涼とした草原のなか、沖縄特有の墓地である亀甲墓が多く並ぶ墓地群があります。f:id:unknownhuman12340:20240329220539j:image

亀甲墓はさながら豪壮な邸宅のような外観で、しっかりとした亀甲状の屋根のある石室に(伝統的には)遺体が安置され、その正面には祭祀スペースがあります。したがって伝統的には風葬が行われていたことを伺い知れる風習ですが、現在は病院において死去し、そのまま火葬されることが一般的になっています。また、写真から見られるように、亀甲屋根の上には本土の墓のような四角い石碑がしばしば見られ、管見では与那国に特徴的だと思います。石垣島などでは見られないものでした。
興味深いことに、写真をよく見ると分かるように墓はだいたい同じ方角を向いています。無論例外もいくつかありますが、入口を西に向けた墓が多くあります。これは風水の関係によるものと思われます。
ところで墓地群でひときわ目を引く巨大な建物がありますが、それは「一億円の墓」と呼ばれる与那国島の実業家の墓です。f:id:unknownhuman12340:20240329220542j:image
琉球の伝統的な泡盛という一種の焼酎は、祖先祭祀の一環として御嶽などに奉られたほか、このような葬祭において振る舞われるものでした。一般的な泡盛は飲食や供物等に用いられますが、殊に与那国では60度の泡盛、特にこれは花酒と呼ばれるものが製造されています。この極端に強い度数の泡盛は棺に供えられたほか、一定期間が経過すると取り出し、風葬で露わになった骨を洗うために用いられていたとのことです。ほかには酒宴に供されるほかは一種の消毒液として用いられていたそうです。

泡盛タイ米から作られており、味はクセがあり、舌の中央に感ぜられる独特の苦みとかすかな甘味があります。

3 島の自然

与那国島は文字通り絶海の孤島であり、周りは海に囲まれています。それによって保存されている自然も美しいものです。

西崎(いりざき)・日本最西端の碑
西側の岬で、上の日本最西端の碑があるほか、灯台もあります。日が沈むので「いりざき」なのかもしれません。ちなみに文字通りの日本の最西端は、西崎から見えるこの岩礁です。f:id:unknownhuman12340:20240329220646j:image
言わずもがなですが、与那国島は日本最西端の島なので「日本最西端の碑」があります。f:id:unknownhuman12340:20240329220705j:image台湾が日本最西端だという思想の強い人には受け入れがたいかもしれませんが)久部良集落の漁港の端のほうからまっすぐ行き、坂を登って海岸の高台に行くと、このようなこじんまりとした石碑があります。
夕暮れどきに行くと、日本で最後の夕日が沈んでいくなかで日本最西端の碑も一緒に見るという貴重な経験ができます。

東崎(あがりざき)
東側の岬で、日本最西端の東側、日が上がるところなので「あがきざき」なのかもしれません。灯台があるほかは草原が広がっており、与那国馬が放牧されています。f:id:unknownhuman12340:20240329220744j:image
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与那国馬
日本の在来馬で、ポニーくらいの小柄な馬です。聞くところによると、顔に白い模様があるのが外来種との交雑種らしく、模様がないのが純血種らしいです。馬は島のほぼ半分を占める放牧地帯に多数生息しており、島民の生活区域になっている北部および集落の境界にはテキサスゲートが設けられており、馬が集落に入らないようになっています。f:id:unknownhuman12340:20240329215603j:image
バスに乗るとテキサスゲートを超えて南部に入ります。南部は馬が放牧されているので、バスから馬を眺めることができ、バスの進路を馬が塞ぐということもよくあります。

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ちなみに与那国馬には、本土では伊豆大島で会えます。


岩々
与那国島の近辺には海による侵食で形成された岩があります。これは「立神岩」と呼ばれるものです。他にはサンニヌ台と呼ばれる岩もあり、島付近の海の浸食作用の強さが伺われます。f:id:unknownhuman12340:20240329220856j:image
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島の中央部にはティンダバナ地形と呼ばれる断崖があります。今回は登ってはいませんが、祖納集落が見下ろせるらしいです。島が断層の隆起によって形成された事がよく分かる地形です。f:id:unknownhuman12340:20240329215851j:image

与那国島というと、比川集落の付近の海底に、俗に「海底遺跡」とよばれる海底地形が有名です。自然地形にしては直線的な、したがって「人工的な」岩石加工の痕跡が遺跡たる所以と言われています。しかしながら、地質が同一であろうサンニヌ台や立神岩などを見ると、岩の性質として直線・平らに削れやすいというものがあるように見受けられます。したがってやはり海による浸食作用によって形成されたものと言えるのではないでしょうか。人工的な地形にしては人間が使うには巨大過ぎるとも言えますが、地質学的な調査も必要なのではないかとも思います。

 

星空
島のほか街明かりが少ない与那国島は、晴れる日が少ないものの星空が非常に美しいところでもあります。特に与那国島は、北回帰線のわずかに北に位置しているため、本土では殆ど見られない南の天体も見られます。12月から6月には南十字星が見られるというのもよく知られていますが、私は11月に行ってしまったので見られませんでした。そのかわりに見られた薄い天の川と桁違いの星の数々は、関東地方の光に汚れた空では観測できないほどで圧倒されたものです。
しかし重大な欠点としては1年を通して晴れる日が少ないほか、特に5月~6月はある程度の滞在をしなければならないと思います。

海も当然綺麗です。そもそも砂が違うので、本土のような黒っぽい砂浜にはならないのです。f:id:unknownhuman12340:20240329221246j:image
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ところで、この緑色の謎の貝(?)ってなんですかね…?次の写真はこの緑色の貝が残した足跡です。
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ちなみに漂着物も多くあり、しばしばハングルばかりだったり中国語だったり、国際色豊かです。

4日目:石垣島竹富島

3日目は朝に与那国島を立ち、石垣島へ行きました。f:id:unknownhuman12340:20240329221012j:image
かつての旧石垣空港では羽田から石垣島への直帰(直行はできた)が不可能で、行くのが困難だったわけですが、新石垣空港になってから羽田からの直帰ができるようになったほか、LCCのピーチエアラインが就航して行きやすくなった島です。
石垣島は、付近に西表島竹富島をはじめとして、離島からのさらなる乗り継ぎを必要とする所謂二次離島を数多く抱え、市街地にある離島ターミナルからは各島への高速船が就航しています。f:id:unknownhuman12340:20240329221429j:image
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この離島ターミナルには(土地柄)尖閣諸島に関連する展示がありました。f:id:unknownhuman12340:20240329221533j:image
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尖閣諸島はしばしば揉めていますが、その是非はさておくとして、石垣島の居酒屋に行くと尖閣諸島近海で取れたマグロが食べられます。(国際問題的な意味で)珍味です。


私は石垣島を巡るか離島へ行くかを検討した結果離島へ行くこととし、竹富島へと向かいました。ほんの1、2時間程度の急ぎ足の短い滞在でしたが、それでも竹富島の一片をうかがい知ることができたのではと思います。

1 竹富島

言わずと知れた竹富島は、美しい「星の砂」からなる白い砂浜と碧い海や、舗装されていない白い砂利道と琉球建築が残る島です。それもさることながら、やはりここにも伝統的な文化は息づいています。

島へは、300円程度の入島料を払うことができます。奇妙な言い方ですが別に必須というわけではないからというのと、竹富島の文化や自然を保護するために使われるらしいほかに、払うと入島証がもらえます。

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f:id:unknownhuman12340:20240329221606j:image先島諸島の各島で見られる琉球建築ですが、竹富島のものは特に美しく整備された琉球建築だと思います。f:id:unknownhuman12340:20240329221603j:image

なごみの塔と言われる塔です。老朽化で立ち入れなくなっていますが、登ると島全体を見下ろせたようです。
島内はレンタサイクルや水牛が主な交通手段となっています。レンタカーもあるようですが、舗装された道路は島の外周を回るのみで自動車が役に立つようなところではないと思います。また水牛車が運行されており、google mapでもルートとして提案される程度には公共交通機関としての性格があるようです。
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御嶽
竹富・石垣近辺の御嶽(この地域では「オン」と読む)は数多く、竹富島の小さい島には28あると言われています。どの御嶽も建物がしっかりしている印象があります。見た範囲での御嶽を以下で紹介しましょう。
1️⃣西塘御嶽
西塘御嶽は、竹富島出身の偉人である西塘を祀る御嶽として崇敬を受けており、近年改築されて綺麗になっています。f:id:unknownhuman12340:20240329221705j:image西塘は、琉球王国の時代の八重山諸島という辺境にあった竹富島から立身出世し、そして八重山諸島の行政官として竹富島に戻り、後に石垣島で行政官として生涯を終えたという人物です。彼の愛郷心の強かったことは、現在の竹富島でも敬われていることからも伺い知られます。

2️⃣3️⃣世持御嶽・玻座間御嶽
世持御嶽は特に大規模な御嶽となっています。旧暦9月に賑やかな祭祀(種子取祭)が行われるためで、広場のほかにおそらく屋根の骨組みが設置されています。f:id:unknownhuman12340:20240329221722j:image
付近には玻座間御嶽もあります。ここで祀られている根原金殿は、農耕をもって島内の村を開いた偉人であり、そして世持御嶽の付近にあるように農耕の神として崇められています。f:id:unknownhuman12340:20240329221739j:image

海辺
竹富島といえば海と白い砂浜も著名です。サンゴ礁でできた島と有孔虫の遺骸である「星砂」は、含有成分の炭酸カルシウムによって白くなっているわけです。そして東京の薄汚れてゴミが流れている汚い海ではなく、サンゴによる遠浅の澄んだ海は一度訪れる価値はあると思います。f:id:unknownhuman12340:20240329221805j:image
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住宅街
琉球建築で有名な住宅街です。赤瓦にシーサーが乗った建物は、中学社会や地理の教科書で必ずと言っていいほど「沖縄の伝統的な建築」として掲載されています。f:id:unknownhuman12340:20240329221928j:image
f:id:unknownhuman12340:20240329221924j:imageしかし実際のところ、このような琉球瓦を用いた琉球建築が島全体に広がったのは1970年代からで、それまでは富裕層などに限られていた高級な建築であり、庶民の住宅はほとんど茅葺きだったようです。それを示す写真が竹富港にあり、割と衝撃的だったのを覚えています。

赤瓦建築は沖縄の地域性を示す住宅という紹介がよくされますが、考えたら赤瓦は仮にも瓦であって、台風で飛ばされようものなら瓦を作るところからになるので、修繕がかなり大変です。そうすると茅葺きのほうが合理的にはなるわけですね。

2 石垣島

石垣島は正直宿泊くらいの通過点ではあったものの、多少時間はあったので、石垣市街地に限って歩いて色々見ました。

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これは島蔵元の跡です。早い話が琉球時代の役所の跡ですが、石垣島八重山諸島で最大の島だったということから、このような出先機関が置かれたわけです。

また、八重山博物館も非常に興味深いものでした。行ったときにはたまたま特別展が行われており、蔵元の絵師による絵図が展示されていました。
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勾玉は、本土ではヒスイ等を使って作られる小型のものが多いですが、八重山諸島では焼き物で大型のものが出土するようです。
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民俗資料も特徴的ですが、本土とのつながりもやや感じられるような気がします。
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葬送儀礼についての展示もありました。先述したように八重山諸島では特に「洗骨」という風習があり、酒などでもって風葬後の骨を洗って再度埋葬する風習がありました。今は火葬がほとんどとなっています。
御嶽(石垣島ではオンと読む)もかなりの密度で分布しています。
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上は長田御嶽です。この付近にも数多くの御嶽があります。

私は基本的にスピリチュアルを信じないのですが、こと美崎御嶽に限っては入口の鳥居が破損しているということや鬱蒼とした森に囲まれていたことから何かしら感じるところがあり、鳥居の外から拝むことに限りました。

また、日本最西端の禅寺なるところがあり、ローカライズドされた寺院建築が非常に興味深いところでした。

4 総括

以上のような旅程を11月の頭にやってきたという旅行記でした。
ふつう沖縄というと、沖縄本島美ら海水族館を見たり首里城を見たりといったことをするでしょうけれども、そんなことはせずとにかく西進をするという逆張りルートをしました。
ともかく、特に与那国島の2泊3日間や竹富島の景観は、日本各地を巡った私としても極めて強く印象に残ったものでした。沖縄へ行く機会があれば、今度は1週間~10日程度の日程を取り、大東島などや有人島最南端の波照間島と合わせてぜひまた訪れてみたいところです。