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今更旅行記-④いい日旅立ち〜西へ〜-⑵松山・広島

さて、2(3?)日目は松山から参ります。早朝松山市につきまして、始発がないのでまだ暗いうちからJR四国三津浜駅まで歩きました。割と遠かったです。

さて、松山市に到着しまして、まずは道後温泉に参ります。f:id:unknownhuman12340:20190220182219j:imagef:id:unknownhuman12340:20190220182226j:image

道後温泉といえば夏目漱石の『坊ちゃん』です。だからなんだという話ですが、中の大風呂には看板があり、話中に出ていたものと同じであって面白かったです。建物は古めかしく趣がありましたが、この建物は現在改築中です。

坊っちゃん列車なるものもありました。昔は実際蒸気機関で動いていたらしいのですが、現在はディーゼルのようです。

愛媛といえばf:id:unknownhuman12340:20190220190536j:image

 

さて、この次に参りましたのは松山城です。f:id:unknownhuman12340:20190220190635j:image備中(岡山県)にも「松山城」なる城があるので、こちらは伊予松山城とも呼ばれます。どちらも天守閣を持つ城郭です。天守閣といえば世界遺産の姫路城が有名ですが、そもそもの役割は物見櫓的なもの、それにしてもこのような大建築は無駄であるから、結局は大名の権力誇示のために作られたものです。似たようなものに「櫓」と言われるものがあります

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城下ではじゃこ天なるものが売られていました。ほんのり塩味がして美味しゅうございました。

 

この後は再び松山港に戻り、次は呉に向かいます。

途中、f:id:unknownhuman12340:20190220223539j:image音戸大橋なる橋をくぐりました。音戸は平清盛が開削したというあの音戸の瀬戸にかかる橋で、両脇の山がちな地形を見てもやはり開削が妥当な場所だとわかります。

音戸の瀬戸といえば平氏政権の時代に遷都された福原京や、その外港である神戸(大輪田泊)への運送の効率化などを図って開削されましたが、それほど昔から瀬戸内海は水運の要衝であったと言えるでしょう。

さて、呉に到着しました。呉は帝国時代に鎮守府が置かれるなど、海軍の拠点として、現在でも海上自衛隊の拠点として続く港町です。f:id:unknownhuman12340:20190220222519j:image

ちなみにこの近くには造船工場があり、自衛艦(?)を造船していました。

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呉はやはり昔から帝国海軍との結びつきがあったため、また、造船所もあったために大和ミュージアムがあります。大和に限った話ではなく、旧帝国海軍のあらゆるものや実物を展示している、興味深いミュージアムでした。この写真のミニチュア大和は実に精巧な作りをしていました。細かいところは無論、よく見ると水兵が甲板に立っているなど、極めて細かいところまで作りこまれています。

さて、この次にランチということでf:id:unknownhuman12340:20190220223130j:image広島焼きでございます。下に焼きそばがあるのが特徴的で、関東などでよく見るお好み焼きとは若干異なりました。京都の一銭洋食などとも異なり、なるほど地域性があって面白いものです。チーズ広島焼きもあり、実に美味しそうでした。

さて、この後は呉駅から呉線に乗って広島駅に向かいます。この旅行後、西日本豪雨によって呉線などは土砂崩れで被災してしまい、現在も徐行運転など影響が残っています。被災者の皆様の一日も早い復興をお祈りいたします。

さて、広島に着いたのは夕方f:id:unknownhuman12340:20190220223450j:image、そこから厳島神社に参りました。f:id:unknownhuman12340:20190220223454j:image遅かったので参拝はできませんでしたが、夜のライトアップが美しかったです。

厳島神社は装飾経である平家納経が納められていることでも有名ですが、なによりもその建築が特徴的です。海上における寝殿造で、突き出た部分には舞台があります。ここでこのような夜に舞をすることなどがあれば、神秘的なことこの上ないと思います。それほど美しく神秘的な場所でした。今度は昼間に来て参拝して見たいと思います。

鹿も多かったです

 

さて、この後は広島駅の方に戻りつつ原爆ドームを見ました。f:id:unknownhuman12340:20190220224506j:imagef:id:unknownhuman12340:20190220224510j:image太平洋戦争末期、1945年8月6日に原子爆弾が落とされた場所というのは言うまでもないことです。3日後の長崎への投下も合わせて、このような惨禍は二度と起きてはなりません。我々はこの戦争を反省するとともに、この時代を生き抜いて、戦後の日本を作り上げてきたたくましい方々への感謝も忘れてはいけないと思います。

 

さて、f:id:unknownhuman12340:20190220224937j:imagef:id:unknownhuman12340:20190220224943j:image夕食でございます。広島といえば牡蠣ということで、焼き牡蠣をたべました。生牡蠣は幾度か食べたことはありますが、焼き牡蠣は初めてでした。しかし、いずれにせよ海水の味は極めて濃く、なるほどポン酢の類は特にいらないものだと思いました。

ちなみに写真に写っているジョッキの中身はジンジャーエールですので誤解なさらぬように。

この後は広島駅周辺をふらふら歩きまわり、クリスマスということで通りがかりのサンタクロース(?)の人に飴をもらうなどしました。

 

その後23時頃にバスで京都に向かいます。

今更旅行記-④いい日旅立ち〜西へ〜-⑴九州

さて、長期間の旅行をした話です。

まず行程を申し上げます。

①東京-神戸六甲アイランド-阪九フェリー

②新門司港-門司-博多-下関-小倉-松山・小倉フェリー

③松山-道後温泉-石崎汽船-呉-広島

④京都-奈良-大阪

⑤東京

となっております。

では早速①②を見てみましょう。

まず大阪神戸〜北九州のフェリーです。阪九フェリー名門大洋フェリーと二者が競合しているようですが、今回私は安かったので阪九フェリーを選びました。f:id:unknownhuman12340:20190218220713j:imagef:id:unknownhuman12340:20190218223041j:image

瀬戸内海はどうやら物流の動脈的存在のようで、多くの船が行き交っております。フェリーに関しては、先ほどあげた二つ以外にも、別府の方面に行くフェリーさんふらわあ、宮崎の方に行く宮崎カーフェリーなどといったものがあり、四国方面ではオレンジフェリーなど、やはり豊富にあります。ちなみに東京から行った場合は、太平洋を経由して徳島に寄港し北九州に向かうオーシャン東九フェリーがあるので、ゆったりとした旅行にぜひとも使って行きたいものです。また、瀬戸内海を通るため明石海峡大橋などのライトアップは美しいのですが、広島の方を通るため夜景を期待しても、陸から少し離れているのであまり見えません。

さて、2日目に北九州は新門司港に到着しました。やたらご立派な建物でございます。f:id:unknownhuman12340:20190218221313j:image

門司港門司港はまた違いまして、門司港関門海峡で少々入り組んだ位置にあり、不便でありますからかは知りませんが、ひらけた新門司港をつくったのだと思われます。ちなみに沖合には北九州空港がありました。

さて、そこから1時間ほどかけて博多へ参ります。f:id:unknownhuman12340:20190218221659j:imageなにぶん九州には初上陸なので、駅だけでこんなに興奮しているようでは田舎者がバレてしまいます。それは置いておきまして、博多周辺は昔から商業都市港湾都市として栄えており、古来から大宰府などのように対中国の外交拠点として重要視されており、中世では博多と堺の商人が競って中国との交易を行っており、寧波の乱などでは実力行使があるなど対立もありました。現在でも関東からすると僅かながら異文化を感じるような場所であり(多分気のせい)1日もいられないというのが残念ではありました。

さて、九州に来たからには行きたいところがいくつかありまして、大宰府九州国立博物館吉野ヶ里遺跡であったのですが、九州国立博物館は時期的(年末だったので)に開館しておらず、吉野ヶ里遺跡はやや遠かったので、大宰府に参りました。f:id:unknownhuman12340:20190218222333j:imagef:id:unknownhuman12340:20190218222341j:imagef:id:unknownhuman12340:20190218222337j:image大宰府といえば…ということで、近くに梅ヶ枝餅なるものがありいただきましたら、なるほどなかにほんのり梅の香りがするおやきみたいなものです。美味しゅうございました。あと面白かったのはスターバックスですか、現代的な建築なんだかよくわかりませんけれども、木をふんだんに使った面白いものでした。f:id:unknownhuman12340:20190218222836j:image

さて本題です。大宰府とはいうものの、中途半端に天満宮しか行かなかったのはやはり時間がなかったためで、今度行くときはもっと時間を取って行きたいと思うものです。大宰府について申し上げますと、先ほども述べた通り古代日本の外交拠点として重要視されており、663年の白村江の戦いをうけて防衛機能が強化されました。それによって防人が徴発され、水城や大野城、基肄城などといった山城などが築かれました。この後は遠の朝廷として、九州地方での朝廷の出先機関として存続し、平安時代には格好の左遷先となったのです。菅原道真藤原伊周なんかはまさにそのような人で、政争に敗れたようなものが来たところです。(もちろん藤原隆家など、自ら望んできたようなのもいますが)

太宰府天満宮は「天満宮」、つまり菅原道真を祀っている神社ですが、これは昌泰の変で藤原時平に讒言されて左遷されたのちに雷神として清涼殿に襲来し、雷を落として混乱させたということで、北野天満宮での御霊会、ここ大宰府において丁重に祀られることになったわけです。

もう一人の藤原伊周について申し上げますと、こちらもやはり大宰左遷されてきた人物です。こちらは藤原道長との政争に敗れてここに来ました。ちなみに同時に出雲権守に弟の藤原隆家が左遷されましたが、その後中央に復帰したのち、今度は自ら大宰権帥として1019年に刀伊を武士団を率いて撃退したという人ですが、先に述べたように「眼病の治療のため」ということで自ら大宰府に行ったという人です。

ちなみに、大宰権帥の職は地味に江戸時代末期まで続いていて、明治維新の直前に廃止された職ですから意外と長く続いています。

その後は博多駅に戻り、うどんを食べるなどしました。うどんといえば香川の讃岐うどんが某うどんチェーン店の影響で有名ですが、博多のうどんも発祥の地を謳っているだけあって特徴的です。f:id:unknownhuman12340:20190219195331j:image讃岐うどんは一般に歯ごたえや喉越しが特徴的であると言われていますが、博多のうどんは大変柔らかいものです。また、柚子胡椒(胡椒といっても唐辛子)を入れて食べますが、つゆの味と引き立てあって美味しゅうございました。

この後は福岡市博物館に参りました。目的は様々ありますが、まず第一に有名な志賀島出土の「漢委倭国王」の金印です。f:id:unknownhuman12340:20190219195622j:image真贋などいろいろありますが、ここから出土したことから考えられことは、奴国が後漢と結びつくことができるほどの当時の日本における九州での有力勢力であったということでしょう。あるいは、西日本の勢力がもうこの時代、すでに一大勢力ができていたともいうことはできるかもしれませんが、この後は卑弥呼やその他倭国大乱などがあったため考えることは難しく、したがって前者の説が考えられます。邪馬台国との関連を考えてみることもできなくはないでしょうけれども、しかしそれにしても「奴」と「邪馬台」と名前は明らかに違いすぎ、また、時代も100年ほど変わるために考えにくいと思います。今後の研究が待たれるところで、私自身も興味深いと思っている部分です。

この後は、せっかく下関が近いということでフグを食べようと思ったため下関まで参りました。f:id:unknownhuman12340:20190219202215j:image関東では3、4000円するでしょうけれども、やはり現地では2000円程度と安くいただくことができました。やはりポン酢とフグは相性が良く、てっぴの食感が実に面白く、美味しゅうございました。

この後は小倉に戻り、松山・小倉フェリーに乗船して愛媛県松山市に向かいます。

 

 

今更旅行記-③平泉

平泉でございます。平泉と言いますと奥州藤原氏の拠点として、平安時代後期には大勢力だったのは有名ですが、江戸時代には松尾芭蕉が『奥の細道』の道中で訪れたところでも有名です。

行程は1日目夜発-2日目朝一ノ関駅着-平泉-盛岡-夜盛岡発-3日目朝着でした。

平泉駅からまずは例によって徒歩で、達谷窟まで参りました。f:id:unknownhuman12340:20190218184319j:image達谷窟毘沙門堂が岩の中に食い込んで作られているというので有名です。この毘沙門堂は、平安時代初期の征夷大将軍坂上田村麻呂蝦夷討伐を記念して作られたもので、こののちに朝廷側はさらに北上し、少し北の奥州市にある胆沢城や、盛岡市の志波城に拠点を移しました。ところで、その隣の大仏の彫刻もまた面白く、弓矢によって作られたとかいう逸話があります。
f:id:unknownhuman12340:20190218184326j:imagef:id:unknownhuman12340:20190218190334j:imageさて、そのあと参りましたのは毛越寺です。f:id:unknownhuman12340:20190218184644j:imagef:id:unknownhuman12340:20190218184706j:image

浄土式庭園が有名ですね。平安時代の後期から浄土信仰が盛んに行われ、同様の庭園では平等院の庭園などは有名ですが、ここも今でこそ建物は失われていますが、さぞや大規模なものだったことでしょう。

このあとは平泉でメインの建築と目される中尊寺に向かいました。f:id:unknownhuman12340:20190218185126j:image
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鞘堂内部は撮影禁止なので外からのしかありませんが、紅葉と残雪があって実に面白い光景でした。メインの金色堂には藤原三代のミイラ(清衡・秀衡・泰衡)が納められていますが、それにしても豪華絢爛な造りです。『奥の細道』では「かねて耳驚かしたる二堂開帳す。経堂は三将の像を残し、光堂は三代の棺を納め、三尊の仏を安置す。七宝散りうせて、珠の扉風に破れ、金の柱霜雪に朽ちて、既に頽廃空虚のくさむらとなるべきを、四面新たに囲みて、甍を覆ひて風雨をしのぐ。しばらく千歳の記念とはなれり。   五月雨や降り残してや光堂」という極めて有名な章で言及されております。現在はこの当時の鞘堂ではありませんが、中の様子は全く変わらないものであろうと思われます。五月雨ではなく残雪の雪解け水が垂れてきましたが、これもまた一つ風情がありましょう。

さて、こののちにお昼ご飯にわんこそば…じゃない(無知なもんで、腹がはちきれるまで大量に出されるというもんだと思ってました)お蕎麦

f:id:unknownhuman12340:20190218190633j:imageを頂きまして、そのあと参りましたのは高館とか衣川館とか呼ばれるところです。f:id:unknownhuman12340:20190218190708j:imagef:id:unknownhuman12340:20190218190716j:imageここも『奥の細道』で言及されているところですが、それよりも源義経の最期の地としても知られています。さて、ここで義経について申し上げておきましょう。源義経は、ここ平泉と奥州藤原氏に縁が深く、幼少期は奥州で育つなどしていました。中央で全盛期を迎えた平氏(「平家にあらずんば人にあらず」のように)に対して、以仁王の令旨に呼応した、伊豆の源頼朝やその弟の範頼、木曽源氏の源義仲などが一斉に挙兵し、平家の没落のカウントダウンが開始されたのです。(これをその元号をとって治承寿永の乱と言う)このあたりの話は『平家物語』や『吾妻鏡』などに詳しく、『平家物語』では例えば一ノ谷の戦い鵯越などの話、弁慶の話などが有名です。(どこまで事実か脚色かは分かりかねますが)さて、そんな中義経は当時の最高権力者たる後白河上皇の信任を得、頼朝追討の院宣を得るなどしますが、逆に頼朝は義経追討の院宣後白河上皇から受けるなど混乱を極め、義経都落ちし吉野に逃げ、そこで静御前と別れたというのは実に有名な話です。1185年に守護地頭の設置の勅許を受け、義経を奥州まで追い詰め、ついに4代当主の藤原泰衡によって、衣川館で自害したというわけです。これにあっては「弁慶の立ち往生」(主人の義経を守るために飛んでくる矢を身を盾にして立ち尽くしたまま死んだって話)なんてのが有名ですが、平家物語などにはそのような記述は見られないそうで、するとこれは『義経記』などの創作というわけです。

さて、時代は500年下り江戸時代、ここに松尾芭蕉が訪れ、「まづ高館にのぼれば、北上川南部より流るる大河なり。衣川は、和泉が城をめぐりて、高館の下にて大河に落ち入る。泰衡らが旧跡は、衣が関を隔てて南部口をさし固め、夷を防ぐと見えたり。さても、義臣すぐつてこの城にこもり、功名一時のくさむらとなる。    国破れて山河あり、城春にして草青みたりと、笠うち敷きて、時の移るまで涙を落とし侍りぬ。

夏草や兵どもが夢の跡

卯の花に兼房見ゆる白毛かな 曾良

のように述べられています。まさにその通りであるとしか言いようがありません。実に的確にこの場所を捉えていると思います。(行ったのは秋の末で夏草なんかなかったのは内緒)

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このあと参りましたのは無量光院跡でございます。ここも毛越寺と同様浄土庭園であったとされていますが、写真の通り現在は申し訳程度に池が残っているだけとなっています。

さて、ここまで紹介して寺院について申し上げます。

達谷窟と無量光院を除いてここの寺院は全て天台宗の円仁上人が開基したと言われています。三代座主の円仁は、五代座主の円珍と激しく対立したため、天台宗は山門派と寺門派(円仁は山門派)に分かれました。また、入唐した旅行記で『入唐求法巡礼行記』を著しています。その当事者であるわけですが、東北地方の有名な寺院には中尊寺毛越寺立石寺瑞巌寺など、円仁の開基とされる寺院が多いと感じます。ちなみに関東だと宇都宮の宝蔵寺や、現在は立派な楼門だけ残る真岡市の長栄寺などがあります。(近所なので紹介しただけ)

これらの寺院と奥州藤原氏の結びつきについて、中尊寺は1代・藤原清衡毛越寺は2代・藤原基衡、無量光院は3代・藤原秀衡によって造営されました。また、毛越寺の隣には基衡の妻が造営したとされる観自在王院跡があり、このようにそれぞれ極楽浄土を理想とした建築となっています。それぞれ円仁の興した寺院を再興した、ということになっていますが、考古学的に発見が今のところ乏しいようです。

 

さて、平泉を一通り見ぶつした後は盛岡に行きました。f:id:unknownhuman12340:20190218212956j:imagef:id:unknownhuman12340:20190218213000j:image

第一の目的は帰りのバスに乗車すること、第二の目的がグルメです。盛岡といえば冷麺とじゃじゃ麺が有名ですので、それをいただきました。

冷麺は現在の北朝鮮の地域に当たるところの由来らしいとされています。私個人としては冷麺の歯ごたえが好きなんですが、辛さなども美味しさの一つとなっていることでしょう。

これを食べた後にじゃじゃ麺を食べたので腹がはちきれそうでしたが、じゃじゃ麺は辛めで癖があるように思われました。関東だと「ジャージャー麺(炸醤麺)」というのですが、これとはまた違うようです。どちらもおいしゅうございました。

 

平泉は世界遺産に登録されておりますが、歴史を知らないと遺跡だけ広がっているだけでなにが良いのかよくわからないと思いますが、この地域の歴史や、それ以外にも『奥の細道』を読んでいくと面白さが一層深まるものと思います。

 

 

 

今更旅行記-②伊豆大島

さて、第2回は伊豆大島でございます。前回との間に実は北海道旅行があったのですが、積丹半島神威岬の真っ青な海がきわめて印象的だという感想だけ申し上げます。

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さて、東京は竹芝桟橋から、さるびあ丸で参りました。伊豆諸島〜本州には高速船や航空機などの手段もありますが、安さを追い求めた結果フェリーという結論に至りました。行程としては1日目夜に竹芝出発-2日目朝大島到着-昼過ぎに大島出発-夜竹芝到着というものです。

夜出発でしたので、レインボーブリッジ始め夜景が綺麗でした。羽田空港の離発着便も結構見え、面白いものでした。夏場は海水浴や釣り客などで大変混み合って廊下などにもレジャーシートを使ってまでいく客もいるようですが、この時は11月で冷涼でしたので、客は多くなかったものです。

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翌朝には岡田港に到着しました。伊豆大島には元町港と岡田港の2つ港がありますが、海の状態で決定されるようです。前日は強風であったからかはよくわかりませんが、兎角無事に到着しました。朝は綺麗に晴れわたり、大島からほど近い静岡県の方には富士山を見ることができました。さて、到着は早朝でしたので、商店やバスの類はほとんど営業しておりません。そこでまず行ったのは三原山でございます。バスも始発前でしたので、10kmくらいを周りの景色を眺めながら歩いて行きました。f:id:unknownhuman12340:20190217165544j:image
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道中、馬の放牧などが行われているところなどがあり、とても見応えのある景色でした。頂上が近づくにつれて硫黄の匂いなどは全くせず、しかし火山灰、特に玄武岩系であろうと思われる黒い土(玄武岩ということはマグマの粘性は低いが、三原山成層火山)、火口付近で立ち入り禁止などがあり、やはり火山であることを思い起こさせます。直近の噴火は1986年、東海汽船や付近の漁船、海上自衛隊海上保安庁の迅速な救出で死傷者がいなかったと言いますが、現在もいくつかの火口から煙が上がっていました。

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三原山の頂上付近に到着しました。戻る際はちょうどやってくる頃合いのバスに乗って戻ろうと考えたため、火口付近には行く余裕もなかったので、この近くにある休憩所だか展望台だかのところから山を眺めたり、火成岩や溶岩の展示を行なっているようなところを見たりしていました。

この後バスに乗って岡田港まで戻り、次は元町港の方に行こうと思いましたので、例によって徒歩で行きました。途中に客はあまりいなかったものの面白い郷土資料館がありまして、f:id:unknownhuman12340:20190217171123j:image

f:id:unknownhuman12340:20190217171140j:image大島の火山活動や民俗を紹介していました。写真はたまたま残っていた火山関係の写真だけですが、ペレーの毛の実物をみたり、あるいは大島特有の文化などが見られて興味深いものでした。

その後また歩き続け、大島の中心地の元町に到着しました。元町には、平安・院政時代の保元の乱で大島に配流された源為朝の館があります。ちなみにこれを見ようと思ったのがこの旅の大きな目的でした(今でこそ門跡が申し訳程度に残っている程度ですが)

ちょうどいいので源平合戦について申し上げましょう。1000年代の平忠常の乱で源頼信平忠常前九年の役後三年の役陸奥守・鎮守府将軍源頼義源義家らが鎮定に活躍し、源義家の乱では平正盛がこれを鎮圧、保元の乱平治の乱平清盛らと源為朝、義朝らが中央での権力を巡って争って滅ぼされたものの、治承寿永の乱(いわゆる源平合戦)に経て終に幕府を開きました。このように、為朝は源平合戦の少し前、平氏とともに朝廷に力を持っていた頃の人であったというわけです。

長くなりましたが話しを戻します。この後は流石に疲弊したため、バスで帰りの港である岡田港に戻りまして、昼食をとりました。港の目の前の料理屋で

ラーメンなどを食べましたが、その後飲食した牛乳とアイスがまた美味しゅうございました。あっさりしていたのが特徴的でした。f:id:unknownhuman12340:20190217175914j:imageまた、この後伊豆大島の地元の方々が伊勢海老の味噌汁を振舞っていたので頂きました。伊勢海老は初めて食べましたが、なるほど味が濃くおいしかったです。f:id:unknownhuman12340:20190217180043j:image

この後は船に乗って竹芝まで戻りました。途中横浜に寄港し、海上から見る赤レンガ倉庫はライトアップされており美しかったです。f:id:unknownhuman12340:20190217180646j:image

 

さて、はじめての伊豆諸島で伊豆大島を選びましたが、なかなか面白いところでした。これから新島や利島、神津島、あと小笠原諸島の方にも行ってみたいと思います。

 

今更旅行記-①奈良・京都-⑵京都

さて、続きましては京都でございます。この旅行の目的である国宝展を見に行ったわけです。f:id:unknownhuman12340:20190217005145j:imagef:id:unknownhuman12340:20190217005149j:image国宝展は何期かあって、そのうち早い時に行きました。今のおぼろげな記憶によると、ハート形土偶雪舟水墨画、あとはやはり仏像で奈良から来たものなどがあり、さすが近畿の文化だなぁと思ったものでございます。京都国立博物館自体については、平成知新館(上の写真の背景)と明治古都館(下のレンガ建築)があり、後者は現在免震工事かなんかで展示が行われていません。したがって平常展は平成館で行われるわけですが、このように特別展があると平常展は休みとなるようです。個人的には京都国立博物館の平常展も極めておもしろい物だと思うので、ぜひ見に行きたいものです。ちなみに目の前には蓮華王院、また、博物館を挟んで反対側には豊臣秀吉ゆかりの豊国神社と方広寺(鐘銘事件をきっかけに大坂の陣が勃発したことはじめ、刀狩の刀で仏像を作った(現存しない)や、文禄・慶長の役での朝鮮軍の耳塚などで有名)があります。

これに行ったのが14時くらいだったような記憶があり、2時間もみると他の寺院もやっているところはほとんどありません(16時頃に拝観終了が多い)ので、もう行くべき場所がありませんので、四条通りを何となく歩いたり、あるいは京都駅の例の豚まんを食べるなどして帰ったというわけであります。

今更旅行記-①奈良・京都-⑴奈良編

時は2017年10月、初めて行った一人旅は京都・奈良でした。国宝展を京都国立博物館でやっているというので、「そうだ、京都行こう」という軽いノリと勢いと割と熱い(?)想いをもって行ってまいりました。基本的に0泊3日という特殊形態であるため、旅行会社というのは介しません。

さて、まず行程について申し上げます。1日目、この時だけは実は大宮から高速バスで行きました。きっついバスで¥6000くらいしましたね、高かったことだけはよく覚えています。夜に出発して1日目終了

2日目には京都駅に到着しました。朝早いので、無論京都の寺院なんかやっているわけないので、近鉄で奈良に行ったわけです。その後京都に戻って夜まで時間を潰し、大宮に戻ります。

3日目の早朝に大宮駅に到着しました。綺麗で爽やかな朝だった記憶があります。

さて、以下は見物の詳細を申し上げます。写真はまだヘタクソだったので逆光が多めですがご了承ください。

f:id:unknownhuman12340:20190216235354j:image興福寺

興福寺というと、奈良時代から続く藤原氏の氏寺、また、いわゆる南都七大寺と呼ばれる奈良の大寺院の一つのも数えられます。平安時代においては比叡山延暦寺と並んで「南都北嶺」、また、一乗院と大乗院が置かれ、門跡寺院(皇族が入門する寺院。京都では八橋とかで有名な聖護院など。また、室町時代において門跡が『大乗院寺社雑事記』は応仁の乱の史料、また、大乗院の日記類を整理した『大乗院日記目録』が門跡の尋尊によって著され、現在の正長の土一揆などの史料となっている)となりました。源平合戦のころには、平重衡による南都焼討で東大寺とともに焼き討ちに遇いましたが、後述の通り全く力が衰えることはなかったのです。

中世においては「奈良法師」と呼ばれる僧兵(同様の組織に比叡山の「山法師」がある)がいたことでも知られております。また、このような大きな権力から、鎌倉・室町幕府興福寺の位置する大和国には守護を置くことができず、実質的な守護として興福寺が担っていたほどです。

時代は降って明治時代、流石にこの時代の西洋化の流れには抗えず、廃仏毀釈によって写真の五重塔などは極めて安価に売り払われそうになりましたが、なんとか残っております。それ以外にもこの影響としては大きく、寺社の範囲の縮小もありました。この付近には春日大社があり、これと合わせて信仰されていた興福寺は、神道の国教化の流れで分けられ春日大社より格下のものとされました。付近の奈良ホテル奈良公園があり、これらはもともと興福寺境内であったものが廃仏毀釈で土地が売り払われたためこのような位置にあるのです。

現在、中金堂がちょうど落慶したてで、一昨年行った当時はまさに工事中でした。そのため、興福寺の有名な八部衆、特に阿修羅像は工事の前にある仮説の建物で拝観できましたが、現在はどうなっているかは行っていないので存じ上げません。

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東大寺

1枚目は言わずと知れた南大門、その下二枚は有名な阿形と吽形(金剛力士像)です。現在の南大門は東大寺勧進職にあった重源が、南都焼討で綺麗さっぱり焼き払われた東大寺の再建しましたが、それに際し宋の建築様式を取り入れた大仏様で建築されています。また、その中に金剛力士像があります。写真をよく見ていただければわかりますが、上の像は口を「ん」の形で結ぶ吽形、下の像は「あ」の形で開いているので阿形といいます。これらは鎌倉時代の運慶と快慶の合作で、寄木造(つまりパーツで分割し、合わせることで1つの像を作る)で作られ、武士文化の強壮な印象がよく表れているものと評されます。

さて、東大寺について申し上げます。東大寺というのは、聖武天皇国分寺建立の詔により大和国国分寺、また、大仏建立の詔によって盧遮那仏像がつくられました。開眼供養会においては聖武天皇太上天皇で、元正天皇のもと、インドの菩提僊那が開眼を行なったとされます。ここも興福寺と並んで南都七大寺に数えられる大寺でした。

時代は下って南都焼討においては東大寺も焼かれました。しかし、先ほどの重源が勧進職に就き、東大寺造営の資金を集め、宋の工人・陳和卿によって大仏殿や大仏が再建されました。

戦国時代においては三好義継+松永久秀三好三人衆三好三人衆+筒井順慶(大和郡山城が居城)らの東大寺大仏殿の戦いにより再び焼かれましたが、江戸時代に、大きさは天平時代から縮小されましたが再建され、現在に至ります。

 

 

 

ほほう

なるほど、みなさんご覧になりたいとおっしゃいますか、なら仕方がないな

140字では足りないような何かを色々書き繕っていくだけのもので、チラシの裏的要素から旅行記やら歴史のお勉強の要素まで多分に含まれておりますのでご理解のほどよろしくお願いします