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今更旅行記-⑧近畿地方〜⑴奈良

さて、今更旅行記シリーズも最後になりました。⑨以降は普通の旅行レポートになります。

今回の日程は、大阪に所用がありましたのでそれを済ませながら奈良を巡りつつ、伊勢に行き、名古屋に抜けるという近鉄が大活躍するものです。

①東京発〜②大阪着・奈良1泊〜③奈良〜伊勢〜名古屋 でございます。

まず②の奈良に当たるところから参ります。

去年の夏の話です。いつも平城京周辺に行くので、では今度は藤原・飛鳥京の方に行ってみようと思いたったのでございます。大和八木駅からサイクリングでしたが、実に楽しいものでした。

まずは藤原宮跡です。f:id:unknownhuman12340:20190227135017j:imagef:id:unknownhuman12340:20190227135021j:image藤原京において、宮というのは街区の中央に位置しました。その点で平城京平安京とは大きく異なりますが、これは平城京平安京長安をモデルとするのに対して藤原京が洛陽をモデルにしているからだと言われています。

さて、ここで藤原京に関して申し上げます。藤原京というのは694年(平安京遷都のちょうど100年前)に、各天皇が各治世の間にそれぞれ造営した飛鳥宮(浄御原宮とか板蓋宮とか)の形式を変え、何代かに渡る継続的な使用をめざし、女帝の持統天皇がここに遷都したというものです。ここも他の宮城と同様に条坊制が敷かれ、しかも平安京平城京よりもやや大きいものとなっています。また、他の宮の例に漏れず、太極殿や朝堂院の跡なども残っています。f:id:unknownhuman12340:20190227204141j:image

藤原京といいますと、大和三山の存在が挙げられます。畝傍山耳成山、天香山ですね。それぞれを読み込んだ和歌が万葉集にあり、「思ひあまり甚もすべ無み玉だすき畝火の山にわれは標結ふ(詠み人知らず)」「耳成の池し恨めし我妹子が来つつ潜かば水は涸れなむ(詠み人知らず)」「春過ぎて夏来たるらし白妙の衣ほすてふ天香山(持統天皇)」などがあります。特に一番最後の持統天皇の歌は百人一首などにもあるので有名です。ところでこの歌には「夏来たるらし」「夏来にけらし」あるいは「衣干したる」「衣干すてふ」と、微妙に異なったバージョンがあります。「夏来たるらし」の場合「夏が来ているようだよ」、「夏来にけらし」の場合、「夏が来たらしいよ」となるでしょうし、「衣干したる」だと「衣を干している」、「衣干すてふ」だと「衣を干すという」と、それぞれまた印象が異なるものになります。それぞれ後者が百人一首などの後世に伝わっているものですが、比較してみると前者は実際に夏頃に見聞したという臨場感があり、後者は夏を待ち遠しく思っているのか、あるいは伝聞を受けたかような印象を受けます。どちらがいいというのは判断がつき兼ねますが、私は感動を素直に読み込んでいると感じられる前者の方が好きです。

これに関連して、f:id:unknownhuman12340:20190227203019j:imagef:id:unknownhuman12340:20190227203005j:image天武・持統天皇陵にも行ってまいりましたのでここに貼っておきます。野口王墓とも言われている、古墳時代末期の八角墳です。文献資料などによってこの古墳は実際に天武天皇持統天皇が合葬されているということは確実視されていますが、1235年ごろに 棺や副葬品が暴かれて盗難されてしまっており、実物の確認は取れていません。ちなみにこの付近には装飾墳で有名な高松塚古墳などがあります。

さて、藤原京の話に戻ります。結局藤原京は、持統天皇以降文武・元明天皇の使用ののち、710年に少し北の平城京に遷都された後は荒廃してしまいました。

ところで、この時代には白村江の戦い以降で遣唐使が一時中断しているなどしていましたが、701年には藤原不比等や刑部親王が編纂に関わった大宝律令文武天皇の元で制定されるなど、律令国家建設が完成を迎えました。また、持統天皇自身、文武天皇に譲位して政務を行った(つまり日本初の院政が行われていた)ため、政治は安定していたと考えることができます。このため、白鳳文化が花開き、興福寺仏塔(もと山田寺の本尊の頭。鎌倉時代山田寺焼失によって興福寺に移されたという。)や法隆寺の夢違観音(悪夢を見たらこれに祈ればいい夢に変えてくれるという)などさまざまな仏像などが製作されました。

ところで、この時代頃から天皇は神と同一視される(いわゆる現人神)ようになったと言われています。f:id:unknownhuman12340:20190227205709j:imageここ雷丘では、柿本人麻呂が「大君は神にしませば天雲の雷の上に庵りせるかも」という歌を残しています。ちなみに雷丘には何があったかが諸説あり、雷丘やその周辺に推古朝の宮廷、奈良時代淳仁・称徳朝の宮廷(小墾田宮という)や、はたまた墓がある(雷丘の由来になった雷神伝説を残した人物が埋葬されていると言われている)とさまざまに言われていますが、中世には築城者や築城年代など全く未詳ではあるものの城ができたようで、これらが全て破壊されてしまったようです。

 

さて、時代は遡って次は飛鳥時代です。これも古墳時代にあたりますが、仏教伝来(538・552年のいずれか)〜大化改新頃を指すということが一般に言われているようです。最たるものでは聖徳太子こと厩戸王の摂政や蘇我氏の台頭などがあります。

さて、まずこの時代に一貫して存在した仏教について申し上げます。日本における仏教は、欽明朝の公伝(538年:「元興寺縁起」「上宮聖徳法王帝説」。552年:「日本書紀」)以前から渡来人による私伝(つまり個々人の信仰で伝わってきたということ)もありました。いずれにせよこの公伝もよくわかっておらず、

少なくとも欽明天皇百済聖明王から仏教関係の道具などを受けて伝来した、ということは確実のようです。その後、仏教を受容するべきと主張する蘇我氏(具体的には蘇我馬子ら)と原始神道を維持するべきと主張する物部氏(物部守屋ら)との間で崇仏論争がおき激しく対立しましたが、結局蘇我氏側が勝利し、推古天皇が擁立されました。これに際して飛鳥寺が創建されています。f:id:unknownhuman12340:20190227211749j:imagef:id:unknownhuman12340:20190227211816j:image

飛鳥寺、あるいは法興寺元興寺というのは、蘇我氏の氏寺として創始されました。鞍作止利(止利仏師)が製作したとされる大仏が有名です。f:id:unknownhuman12340:20190227211957j:image

仏像にしては珍しく撮影が許可されています。止利仏師製作に仏像は杏仁型の目、アルカイックスマイルなどを特徴としていますが、やはりこれも例に漏れずそのような特徴が現れています。そうはいっても度重なる落雷などの焼失でやはり被害は受けているようで、この像もかなりの部分が補修を受けているものと言われています。しかし実は大部分当時のものが残っているという説もありまして、実際のところよくわかっておりませんが、少なくともこの台座と仏像の位置だけは飛鳥時代からずっと動いていないと言われています。

この後平城京に都が移ると飛鳥寺の機能だか法人だか自体(というんだかわかりませんが)は平城京に場所を移し現在もある元興寺になり、現在まで飛鳥寺元興寺の二つがある状態で続いています。同様の寺院には薬師寺大官大寺(大安寺)などがあります。ちなみに薬師寺に関しては本薬師寺が飛鳥にあったもので、現在では礎石だけが残っています。また、一般に薬師寺と呼ばれるところは東塔や本尊の薬師三尊が極めて有名なところで、もう一つ、春日大社のあたりにある新薬師寺は、奈良時代聖武天皇の発願で建立されたものであると言われています。こちらは大きな目を特徴とする薬師如来坐像が有名です。

飛鳥寺は創建当時は金堂や東堂などを備えた、それこそ法隆寺などにも引けを取らないくらいの大規模な寺院だったとされていますが、現在ではほとんど縮小してしまっています。また、奈良市元興寺の方も興福寺の勢力拡大の一方で衰退したり、あるいは曼荼羅信仰などで勢力を盛り返したりなどしましたが、度々の火災で五重塔を焼失したり明治時代の廃仏毀釈でボロボロになったりなどしましたが、その後修繕されるなどして極楽坊など現在にも残っています。

飛鳥時代の仏教の話に戻りますと、飛鳥時代の寺院といったらそれこそ法隆寺中宮寺広隆寺なども上げることができるということも申し上げます。

さて、飛鳥時代で大きな勢力を持った蘇我氏厩戸王について申し上げますと、これは実に有名ですが、冠位十二階や憲法十七条、遣隋使の派遣などさまざまな政策を行いましたが、憲法十七条では「厚く三法を敬へ。三法とは、仏法僧なり。」などといった役人の心構えをしめしましたが、ここに見られるように仏教の扱いは極めて大きいものでした。また、遣隋使に関しては第2回で小野妹子を派遣し、「日出づる処の天子、書を日没する処の天子に致す、恙なきや(日出處天子致書日沒處天子無恙云云)」と、明らかに宗主国たる隋と対等に立とうという内容で煬帝の怒りを買いましたが、それでも返礼に裴世清を送るなどしています。しかし、隋は聖徳太子存命中に煬帝が暗殺され、新たに唐が起こるなどしていますが、初の遣唐使厩戸王死後の630年、犬上御田鍬を正使として実施されていますが、遣隋使・遣唐使いずれにせよ、中国に先進文化を学んで取り入れようという意図は共通するものです。また、冠位十二階についてはこの後の位階に発展し、さらには官職とも結びついた官位相当の制に発展するその基礎となったものということができます。上から、徳・仁・礼・信・義・智とそれぞれの大小で合計12の位を、それぞれ色分けした冠を与えるというもので、先ほどの小野妹子は最高位の大徳の位を得ています。このように聖徳太子は様々な政治改革を行いました。この背後にいたのがまさに蘇我馬子、というわけです。蘇我馬子は自らの権力を集中させるために崇峻天皇の暗殺を唆したと言われていたりしますが、何にせよ蘇我氏の発展の基礎(といっても次の代で終わるが)を築き、絶頂期の中にいたような人でもあります。その蘇我馬子の墓とされるのがが石舞台古墳です。

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石舞台とは言いますが、結局石室が露出しているだけで、実際墳丘などがあったと考えられます。周りの形からすると方墳の系統であったということは明らかで、上円下方墳だとか、二段からなる方墳だとか色々いうことはできます。いずれにせよ横穴式石室の大規模な古墳であるということが言えます。内部に入ることができますが、棺の類はほとんど持ち出されている(一説では乙巳の変によるもの?)ので何も残っていません。

さて、ここまで色々述べてまいりましたが、私はこれ以外にも橘寺やその目の前にある川原寺(弘福寺)も見てきたということを申し上げておきます。ところでこの二つの寺院に関しては僧寺と尼寺の関係があると考えられています。橘寺は聖徳太子が建立したとされています。二面石が境内にあります。ところで、飛鳥地方の石像はこの二面石以外にも、猿石や亀石、酒船石など色々ありますが、それぞれ何を意味しているかはわかっていません。仏教以前の信仰対象からインテリアというものまで様々考えることはできます。一方川原寺に関しては、天智天皇が発願したもので、古代では飛鳥地方でもかなり大規模な寺院であったと言われていますが、現在では寺院跡だけ残って衰退してしまっています。その後身に弘福寺があります。

さて、最後に中途半端に右側に写っている飛鳥水落遺跡を説明して締めとさせていただきます。

f:id:unknownhuman12340:20190227224446j:image飛鳥水落遺跡というのはさっくりいうと漏刻の跡です。漏刻は天智天皇が初めて作ったと言いますが、この水落遺跡がまさにそれだとされ、この写真に見える柱群の中央にその跡があります。

ここで漏刻については少し説明しますと、漏刻というのは端的にいうと時計の一種類です。当時の時計は日時計(太陽の動きに伴って、地面に刺さった棒の動きが変わることで時刻をはかる)や水時計、つまり漏刻がありました。どちらも時刻を測ることができますが、私見ながら日時計を太陽に基づく絶対的なものということができるとすると、漏刻はあくまで水を用いて一定の期間しか測れないため相対的なものということになるかもしれませんがどうなんでしょうか。経験で1日分に当たる水量が分かればそれこそ日時計より絶対的なものになったと思いますが。もしかするとどちらの機能も備えていて、時刻と時間をいずれもはかることができるものだったのかもしれませんが、それはさておき、日本の明治以前の時刻の捉え方について簡単に申し上げと、十二支で捉えていたのかわけです。(つまりは一日を12の単位で捉えていたということ。現代からすると2時間×十二支の24時間で捉えていたと言うことはできるが、当時そんな1分を60秒としたものが60分集まった、1時間という概念はなかったわけだからなんとも言えないわけだが、それにしてもなぜ東洋と西洋でどちらも12の倍数で捉えていたのかという話に関しては長くなるので割愛。あとで書くかもしれない)

さて、この水落遺跡が完成し、使われ始めた日が6月10日とされています。現在これは時の記念日とされています。

 

さて、このように色々巡ってきましたが、帰りに橿原神宮を回ろうとしてサイクリングのあまりの疲労のため断念しました。今度箸墓遺跡あたりとゆっくりいきたいと思います。

 

以上、長くなりましたが私が日本で最も推す場所である奈良県の飛鳥地方の話でした。一回これくらい書いてみたかったわけです。今でこそ田んぼばかりになってしまった場所も、様々な遺跡などがあることで往時が偲ばれるもので、またこういうところからの考古学的発見は実に面白く、興奮するものだと思います。

 

この後は八木に戻って1泊し、今度は伊勢の方に向かいます。すごい日焼けしました。申し訳程度の鉄道成分を出しますと、大和八木駅近鉄大阪線近鉄橿原線が交わっており、京都行くにも大阪行くにも名古屋行くにも極めて便利な場所です。関東でいうと小山駅でしょうか。橿原線の次の駅である八木西口駅大和八木駅と同一の運賃計算をなされていることで一部の鉄道マニアの間では有名な話です。