とあるツイ廃のブログ

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今更旅行記-⑦仙台

さて、⑥でわずかにしか行かなかった仙台をゆっくり巡ろうという目的で、仙台にゆっくり行きました。

今回の行程:1日目:東京発〜2日目:仙台着・観光〜3日目:東京着 でございます。

まずは多賀城です。f:id:unknownhuman12340:20190226162245j:imagef:id:unknownhuman12340:20190226162250j:image今でこそ跡としてしか残っていませんが、やや高台にあり、仙台を見下ろせるくらいの位置にあります。

多賀城について申し上げますと、多賀城とは奈良時代(724年)に造営され、当時の東北地方の蝦夷(朝廷に従わない人々)の制圧のために置かれた軍事拠点、あるいは鎮守府です。また、陸奥国府も置かれ、日本・大和の朝廷の出先機関としても存在しました。しかし、平安時代に入るとすぐの頃に、朝廷の対蝦夷政策に蜂起した蝦夷の族長であった伊治呰麻呂がここを焼き討ち焼失しましたが、その重要性からすぐに再建されています。その20年ほど後、鎮守府将軍征夷大将軍坂上田村麻呂はさらに対蝦夷戦線を北上させ、現在の岩手県奥州市にある胆沢城に鎮守府の機能を移転させました(これに関しては、胆沢まで進出してきていた阿弖流為<アテルイ>が降伏したことが背景にある。有名な話に、降伏した阿弖流為の武勇を見込んだ坂上田村麻呂阿弖流為の助命を嘆願したが、結局阿弖流為は処刑された、というものがある。また、この翌年には盛岡市に志波城を築城した。)が、それでも多賀城国府の機能は据え置かれていました。しかし、貞観地震(869年)で大きな被害を受けたことから徐々に国府の機能も失われ始め、結局平安時代の終わりころには荘園公領制の進展とともに有耶無耶になっていますが、それでも平安・院政時代に東北地方で発生した前九年の役後三年の役においては軍事拠点として重要な役割を果たしています。その後源平合戦の頃はもうすでに東北地方の中心は奥州藤原氏の拠点である平泉になっており、ここの衰退は目に見えるものとなっています。しかしその後においても、東北地方における何かしらの拠点にはなっていて、例えば完全に国府という制度が見られなくなった、室町幕府初期・建武政権時代の陸奥将軍府などが設置されています。(ちなみに足利義満の頃以降の室町幕政下における奥州探題とは別。また、この後に勢力を拡大する奥州守護・伊達氏に関していうとそもそも福島県が拠点である。)しかし、それらの後は特にこれといったものもおかれておりませんが、江戸時代に多賀城碑が再発見されたことで再び研究が始まったということです。

また、多賀城の裏手には廃寺があります。f:id:unknownhuman12340:20190226234512j:image大規模な寺院であったことは相違ありませんが、詳細はよく分かっていないようです。

さて、次は仙台城に参りました。f:id:unknownhuman12340:20190226234938j:imagef:id:unknownhuman12340:20190226234816j:image仙台城青葉城ともよく言われます。冒頭でも「青葉城恋唄」と述べた通りでございます。広瀬川が城のある小山の麓を流れ、いわば天然の要塞のようになっています。

仙台城天守閣を持たず、京都の二条城のような広大な屋敷がありました。現在その建物自体は残っていません(そもそも明治時代の軍制下で鎮台が置かれていたくらいなので)が、その礎は残っています。仙台城にはその通り仙台藩が構えていたわけです。初代仙台藩主は独眼竜こと伊達政宗公です。f:id:unknownhuman12340:20190226235355j:image

さて、ここで伊達政宗に限らず、伊達家に関して申し上げますが、なぜここで取り上げるかといいますと、私の地元に深く関わりがあるからです。

伊達家は茨城県西部の伊佐や栃木県南部の中村を発祥としています。したがってもともと伊佐氏と称していたのですが、伊達家初代当主の伊達朝宗が奥州合戦(源頼朝vs藤原泰衡奥州藤原氏が滅亡した戦い)において、源氏側で武勲を挙げたために伊達軍(現在の福島県伊達市)のあたりの土地を安堵され、(つまり与えられた)そこから戦国時代に至るまでに大きな勢力になります。しかしそれにも紆余曲折あり、南北朝時代南朝方につき、先ほどの伊佐城の落城などもあって北朝方に降伏しています。しかしその後、室町幕府と接近し鎌倉府に反旗を翻したり、戦国時代に入ると伊達稙宗陸奥守護に任じられ奥州探題を勢力下に置くなどして拡大し、有名な分国法である「塵芥集」を定めるなどしました。その後、安土桃山時代天正年間には伊達政宗が当主となりました。文禄の役に参加したり、関ヶ原の戦いで東軍(徳川家康側)についた譜代になる見返りに上杉氏に奪われていた勢力圏の奪還を許されました。その後家臣の支倉常長らをメキシコ・スペイン・ローマに派遣し(慶長遣欧使節)f:id:unknownhuman12340:20190227001931j:imagef:id:unknownhuman12340:20190227001936j:imageローマ教皇パウロ5世に謁見させています。その後、政宗豊臣秀頼の討伐である大坂の陣に参加し、その戦功により伊予・宇和島藩を得て、長男をそこに置き、宇和島藩が成立しました。幕末には宇和島藩仙台藩で、薩長政府に対する態度が真逆で、宇和島藩では藩主・伊達宗城は殖産興業政策を行い、明治新政府における議定になるなどして活躍しました。一方仙台藩では、戊辰戦争奥羽越列藩同盟側に与して敗北し、家臣は領地を没収されたために北海道に移住し、北海道開拓にあたりました。したがって北海道にも飛び地で有名な伊達市がありますが、ここも伊達氏が大きく関わっています。

このように伊達氏に限った話ではないと思いますが、ある一つの武家といっても様々な場所に関与しているものです。

さて、ここで少し出てきた慶長遣欧使節関係の写真は仙台市博物館に所蔵されていることをここに明記しておきます。件の写真の肖像画などは世界記憶遺産だかに登録されているものです。

仙台といえばグルメもありますね、牛タンとずんだ餅ですが。
f:id:unknownhuman12340:20190227003505j:imagef:id:unknownhuman12340:20190227003458j:image

ずんだ餅はこのとき初めて食べたのですが、なるほど枝豆なんですね。

 

申し訳程度の鉄道成分

仙台駅周辺を地図で見てみますと、あの辺りで曲げなければまっすぐ行ったものをやたら市街地側にカーブさせています。これは当時の仙台の先見の明ある商人などの人々が、当時の風潮(鉄道は病気を運んでくるなどいうデタラメ)にもかかわらず、これからの商業に役に立つであろうということから熱心に働きかけたことで、強引に曲げてでもあのように市街地に入ることになったのです。結果やはりその予想は当たっていたということはできるでしょう。現在直進で行くルートは貨物線になっています。

 

さて、伊達氏は私の地元に極めて深い関わりを持つということで大きく取り上げました。地元の歴史も少し調べてみると、市をあげてやたら推しているような人よりももっと重要な人の祖先がいたりなどすることがあるのでおもしろいものだとおもいます。