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今更旅行記-⑥北海道・東北-⑶奥の細道

前も岩手県の方での奥の細道を題したものをやった気がしますが、今度は少し南の方の話です。

さて、苫小牧から仙台につきまして、まずは仙石線で松島(松島海岸)に参ります。途中の西塩釜駅は、ホームの端が岩を削ってあるという面白い作りでした。仙石線はその名の通り仙台と石巻を結ぶ路線で、東北の路線にしては珍しく直流電化です。これはもともと国鉄の系統とは別路線であったということを示しています。ちなみに終着のあおば通駅石巻駅の発車メロディは、それぞれ様々ある発車メロディの中でも屈指の名曲だと言われておりまして、私もそう思いますのでぜひ聞いてみてください。

さて本題、松島でございます。

 

f:id:unknownhuman12340:20190225181929j:imagef:id:unknownhuman12340:20190225181934j:imagef:id:unknownhuman12340:20190225181956j:image松島は「松島や ああ(さあ)松島や 松島や」と松尾芭蕉が詠んだという話がありますが、これは真っ赤な嘘で、実際は狂言師の田原坊という人物が作ったものです。そもそも芭蕉は松島で俳句を作っていません。その理由に松島の光景に感動したとかいうよくわからない理由がさまざまについて、それと先の歌が結びついたということでしょうか。ちなみに同行した曽良は「松島や 鶴に身をかれ ほととぎす」という歌を詠んでいます。それにしても、奥の細道の行程で松島を訪れたということは紛れもないことです。あと松島といえば牡蠣ですかね。f:id:unknownhuman12340:20190225182014j:image

その後瑞巌寺に向かいました。f:id:unknownhuman12340:20190225182158j:imagef:id:unknownhuman12340:20190225182202j:image

瑞巌寺は円仁の開基と言われていますが、実際のところよくわかっていません。仙台伊達家と関わりが深いところで、肖像画などがありました。

仙台に戻りまして、次は立石寺に参ります。仙山線は面白いですね、面白山高原もさることながら、仙台の都会から山中の田舎の景色を一路線で見ることができます。そんな仙山線を山寺で降りますと目の前に立石寺(山寺)があります。f:id:unknownhuman12340:20190225220202j:imagef:id:unknownhuman12340:20190225220219j:image

例によってここも円仁の開基だとか言いますが、よくわかりません。

江戸時代になりますと、ここには松尾芭蕉一行が訪れます。f:id:unknownhuman12340:20190225220543j:image

言わずもがな奥の細道のわけですが、ここで「閑かさや 岩にしみ入る 蝉の声」という極めて有名な俳句を詠んでいます。f:id:unknownhuman12340:20190225221152j:imageまあ行ったのは春先だったわけでセミも何もなく、ただ川と猫のいるのみということですが。

「閑かさや 岩にしみ入る 蝉の声」という歌はなかなか現実ではありえないような歌だと私は勝手に思っていまして、というのも、蝉は普通やかましくうるさいものであるからです。しかし、それはあくまでウン十匹も鳴いているような話、ここで読まれているのはきっと、周りの田舎で静かな中、一匹ポツンと「ミーン…」とか「ジー…」と鳴いている、そういう鳴き声の、写真のように切り立った崖への反響とそれの余韻を印象的に的確に捉えて表現しているものだと思います。実際聞いてみないとわからないものですがね。

さて、この後は山形駅に行き、例によってバスで東京に帰還しました。ここでも3列シートということで実に快適に帰ってくることができましたが、何より値段が安かったから、ということがあります。

 

この旅行では、特にアイヌ文化に関して様々な知見が得られたということが特に印象に残っています。未だ研究途上の分野なので、ぜひ研究などもしてみたいものです。それ以外にも、三内丸山遺跡などといった日本の始まりの始まりについてや、かねてから続いている奥の細道を追うものなども実に面白かったです。

今更旅行記-⑥北海道・東北-⑵北海道

さて、北海道編です。北海道は3日間おりました。前回は青森から参りましたので、到着先はもちろん函館でございます。

まずは五稜郭に参りました。f:id:unknownhuman12340:20190224135201j:imagef:id:unknownhuman12340:20190224135205j:image

五稜郭はその名の通り五角形(の対角線=星形)をしているわけです。幕末に築城され、明治初頭の戊辰戦争の最後の戦いである五稜郭の戦いの舞台となったところです。ちなみに長野県にも五稜郭様の城郭である龍岡城というものがあり、あまり有名ではない気がしますが、同時代に築城されています。

この函館というところは、日米和親条約の締結に際して函館と下田が開港されました。これに際し、江戸幕府が旧来蝦夷奉行(蝦夷地<=北海道>の幕府による直接支配を担当した役場)を外交担当として再編した際に、箱館奉行の移設先として五稜郭は築城されました。しかし、完成直後に幕府が崩壊し、先ほど述べた戊辰戦争で、南から逃れてきた幕府軍が籠城し、最後の戦いの舞台となったところです。旧幕府軍の指揮官は榎本武揚、また戦争中に様々活躍した土方歳三は函館で戦死したということは極めて有名な話です。f:id:unknownhuman12340:20190224140437j:image

榎本武揚はこの戦いの後捕らえられた投獄されましたが、敵将であった黒田清隆により解放され、明治政府の外交官などとして活躍しました。外交官として最たる活躍に、樺太千島交換条約の全権公使としてロシアと交渉したことが挙げられます。ここで千島樺太交換条約について述べさせていただきますと、両国人雑居であった樺太及び日露和親条約下では千島列島のうち得撫島と択捉島間の国境が定められていましたが、それをロシア側との交渉を経て、樺太をロシア領、千島全島を日本領にし、国境は宗谷海峡と占守海峡と定めたものです。ちなみに、こののち日露戦争を経て締結されたポーツマス条約においては樺太南部は日本領となりました。また、樺太に関して、(チェコスロバキア軍支援を名目に反共を目的に実施された)シベリア出兵の時期にあった、ロシアなどのパルチザンによる日本人虐殺事件である尼港事件なども記しておこうと思います。榎本武揚の話に戻りますが、この後、大津事件(ロシア皇太子ニコライ<=ニコライ2世ロシア革命で処刑されたことで有名>が傷害された事件。児島惟謙の司法権独立の話はあまりにも有名)をうけて退任した青木周蔵外相の後を継いだ(第一次松方内閣)りもしました。もう一人あげた土方歳三新選組副長とその美貌は有名ですね。また、榎本武揚の説明中であげた明治政府軍側の陸軍参謀、黒田清隆は北海道と実に関わりが深く、開拓使長官や第2代首相を歴任するなどしています。開拓使長官時代は開拓使官有物払下事件(開拓使の官有物を、政商の五代友厚らに無利子格安で払い下げた事件)に関わり、明治初期の自由民権運動を盛んにする原因を作ったような人でもありますが、首相時代は1889年に欽定憲法である大日本帝国憲法天皇から受け取る(絵などが有名)などしていました。

さて、話だけ長くなりましたので次に移りましょう。函館といえば何かというとイカですね。f:id:unknownhuman12340:20190224144248j:image美味しゅうございました。市場などいけば踊り食いの類ができるらしいですが、どこだかわからなかったのでここに行ったというのは内緒です。夜ということで、

f:id:unknownhuman12340:20190224144359j:imagef:id:unknownhuman12340:20190224144404j:image前者は倉庫群、後者は「函館といえば」みたいによく出る感じの函館山からの夜景です。このあとは函館駅から高速バスですすきの駅まで行きました。3列で¥4000程度と、関東などとのレートの違いを感じました。

 

翌日は私の親族のツテをたよって札幌から小樽に行きました。よく行くので物珍しいとかいうものは特に思い当たりませんが、一応有名な小樽運河をどうぞ。f:id:unknownhuman12340:20190224144801j:image一泊しましてその翌日は苫小牧に行くので、送迎ついでに登別から戻りつつ苫小牧に向かいます。登別といえばf:id:unknownhuman12340:20190224145056j:imagef:id:unknownhuman12340:20190224145017j:image地獄谷でございます。クマ牧場などでも有名な温泉地ですね。道中は樽前山と太平洋が両側に見えるという、実に面白いものでありました。ちなみに樽前山の北側には支笏湖がありますが、それは樽前山の陰に隠れて見えません。

その次はさらに苫小牧に戻りつつ、白老のポロトコタンでございます。f:id:unknownhuman12340:20190224145239j:imageポロトコタンとはなんぞやといいますと、写真にもある通りアイヌ民族関係の資料館、体験施設のようなものです。現在は国立博物館にするとかで、2020年頃まで休館しています。私が行ったのは実はまもなく休館するというギリギリ最後の方だったようです。

f:id:unknownhuman12340:20190224145451j:image北海道犬です。某大手携帯電話キャリアのお父さんと血縁があるとかないとか言います。和犬は可愛い。

f:id:unknownhuman12340:20190224145611j:imagef:id:unknownhuman12340:20190224145617j:imageアイヌの住居などが再現されていました。よく言われる話ですが、民族は住んでいる場所に対応した文化を形成すると言いますが、このような住居や衣服などを見れば明らかです。また、アイヌの楽器であるムックリ(口に挟んでビヨーンビヨーン鳴る楽器)の実演などが行われていました。なるほどムックリはただビヨーンビヨーン鳴るだけではなく、微妙に音程を上下させてさまざまな情景などを表現しているものです。

さて、ここで北海道とアイヌ民族に関して私見を交えつつ申し上げます。アイヌ民族は、現在でこそ日本の先住民族の一つとして認められているもので、例えば1997年にアイヌ文化振興法などが制定されるなどしています。しかし、それが制定される以前は明治時代に制定された法である「北海道旧土人保護法」に見られるように、差別的扱いを受けていたと言うことができます。おそらく日本の小中華意識(つまり日本を中華、周囲を夷狄とみなすような東アジア、特に中国の各王朝において見られるもの)や明治時代〜戦前の帝国主義の考え方よるものでしょう。小中華意識というものは日本における明治政府以前、江戸時代などにも見ることはでき、琉球王国の扱いや松前藩への献上を描いた絵画、また、蝦夷地(異民族や朝廷に従わない人間の地。古代でいうと東北地方の住民はまさにそのようであったため、坂上田村麻呂など征夷大将軍が征討した。「夷」の字自体、中華思想における周囲の夷狄<東夷、西戎北狄、南蛮>のうち東夷に含まれていることからも、いかにも異民族の扱いを受けていたと言えるであろう)と呼ばれていたことなどからもわかります。

時代は遡り日本で言うところの縄文時代から日本人とアイヌ民族の関係を見てみますと、縄文海進(縄文時代の海面上昇)以前、北海道と本州は陸続きであったということから、日本人と北方の居住者(ただしこれとアイヌは必ずしも一致しない可能性があるので、以降室町時代以降の考察に至るまではこの名称を用います)の行き交いは自由、その後も弥生時代などにおいても船による行き来などは十分にできたので、この時代においてはアイヌと古代日本人の違いはあまりなかったということができるでしょう。しかしこの後、本州においては稲作が広まりましたが、北海道においては泥炭地などによる貧弱な土地および稲には寒冷すぎる気候で狩猟採集経済が続いたことにより、本州では首長などを中心に稲作などを協力し合うような文化が発生し、中央集権の国家が出来上がった一方で、北方の居住者は先の理由により各部族ごとで分立した状態で、狩猟採集(一部ヒエやアワ、マメなどの農耕文化を含むか)を中心とした続縄文文化や擦文文化、オホーツク文化といった本州とは異なった、稲作を中心とはしない独自の文化が続いていきました。これに加えて周辺の各民族(特にロシア極東部)との交易も相まってそのような人々との混血が進んだ結果、アイヌ民族というものができたのではないかというのが私見です。したがってそもそも先住民族、というよりかはそもそも同じようなものだということができるでしょう。これらは未だ研究途上であることは否めません。これからの研究が待ち望まれます。

その後「アイヌ民族」がはっきりわかるようになる室町時代には、「道南十二館」(箱館や志苔館など)を中心にアイヌと和人の交易がありましたが、双方の口論をきっかけとするコシャマインの蜂起や、江戸時代には交易の不平等を主張するシャクシャインが蜂起するなど一部では反抗がありましたが、概ね平穏な交易が行われていたということができると思われます。アイヌ側は干物の鱶鰭(フカヒレ)やいりこ、アワビといった俵物(これを日本は清に輸出することで利益を得た)、和人商人側は漆器などを交換しました。これによりヒエやアワ、キビ、ソバなどのアイヌの農耕文化は一気に衰退したとされています。話は前後しますが、この背景には江戸時代の松前藩の設置設置があります。ここがアイヌとの交易を担いました。商場知行制からの場所請負制。交易権を知行主たる家臣に与え、知行主(=家臣)が直接関わるか、運上金を得て間接的に関わるかという違いがある。)また、江戸時代ではロシアが進出するに伴って幕府が松前奉行を置いて直接統治したり、あるいは根室に大黒屋光太夫を連れたラクスマンが来航したりと様々なことが起こりましたが、最終的に先ほどのように明治新政府によって北海道が設置され云々ということになります。

結局アイヌは異民族とよく言われるものであっても、実際は我々日本人と大して変わらないものから、差別というのは実に意味のないことであるというのが私の主張です。これは同じような歴史をたどっている沖縄などにもいうことはできると思います。

さて、話を戻しまして、ポロトコタンはアイヌ民族を知ろうとするためには非常に興味深く思わせてくれるものでしたので、ゴールデンカムイが流行しているような昨今ぜひ行くべきところでしたが、現在閉館中というですので、早い再開館が待ち望まれるところです。

 

長くなりました。この後は苫小牧港に向かい、太平洋フェリーで仙台に向かいます。

太平洋フェリーと言いますと「きそ」「 いしかり」「きたかみ」の三隻を所有し、苫小牧〜仙台〜(一部)名古屋で運行しているフェリー会社です。この旅行当時(2018年3月末)は旧きたかみ(現在の同名船は2019年1月に就航した最新鋭)がありましたので、同社の他船より値段が安く設定されていました。(現在は船室ランクの変更もあってだいたい同じくらい)それを狙って北海道に1泊したというのが実情ですが、その行程にしてよかったと今でも思います。

 

次は東北編です。仙台から山形に参ります。

今更旅行記-⑥北海道・東北-⑴青森編

さて、北海道・東北でございます。この辺りから高速バスよりフェリーを中心に考えるようになりました。

さて、まず行程を申し上げます。

①東京(上野)発〜②青森駅着〜三内丸山遺跡〜青森港〜函館〜③④札幌周辺(1泊)〜⑤仙台〜松島〜山寺〜山形〜⑥東京着

となっています。

⑴は②の青森・函館編です。

さて、上野〜青森駅といったら高速バス・パンダ号であることは言うまでもありません。日本屈指の長距離バス路線です。

上野発の夜行列車…ではなく夜行バスを降りたときから、青森駅は別に雪に覆われてはおりません。北へ帰る人の群れもなかったので、やや寒い青森駅から新青森駅まで行き、さっそく三内丸山遺跡に向かいます。f:id:unknownhuman12340:20190223202533j:image

三内丸山遺跡縄文時代の前期〜中期頃(約6000〜4500年くらい)の大規模集落です。f:id:unknownhuman12340:20190223202519j:image

掘立柱建物が点在しています。地面をやや掘り下げ、そこに柱を立てるという形式で、f:id:unknownhuman12340:20190223210930j:imagef:id:unknownhuman12340:20190223205420j:image暗いですがこのような感じです。中央には穴があり、ここに縄文土器を直接差すことで使用しました。つまり、加熱などの用途ではなく、単に保存容器として利用されていたのです。これに対して弥生土器は底が平らであり、これは竃などを使用して加熱調理などを行った、実際中には焦げた食物の痕跡が見つかるなどしています。

さて、三内丸山遺跡といえばf:id:unknownhuman12340:20190223205716j:imageこいつです。物見櫓なんだかそうではないんだかよくわからん建物、実際用途は櫓だという説はありますが、無論祭祀用という説もあります。そもそもこの建物自体、柱だけしか見つかっていないことから中・上層部の構造などわかるわけありませんので議論が絶えず、仕方なく「じゃあこうしておくか」的ノリでこのようになったというのはどうやら実話らしいです。f:id:unknownhuman12340:20190223210213j:imageところどころ柱のために掘り下げられた穴があり、そこに木の埋没部分が残っています。これらは栗の木で、狩猟・採集を主としていた縄文時代から多く採集・食されたものです。また、このように大木の栗の木は木材にも供されていたというわけです。先ほどの櫓的な建物も栗の一本木が使われていますが、日本にはそんなでかいのはすでに生息していないわけですから、シベリアかどこかから運んできたものだと言います。f:id:unknownhuman12340:20190223210612j:imageその他高床倉庫はすでに縄文時代から貯蔵庫として利用されています。写真に見えるように、角の出張った部分はねずみ返しなどというもので、ネズミが登ってくることができないように設けられているそうです。

近くの資料館も見てまいりました。縄文土器が様々展示されており、f:id:unknownhuman12340:20190223210806j:image特に「失敗した土器」などというのも展示されておりました。よくこんなものが残っているものだなぁと思うものです。

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三内丸山遺跡に関してはこのほかに面白いことに、東北新幹線新青森駅進入の直前に見ることができるということです。そのため、ここだけそれまで続いている支柱だかは除去されています。また、地図などを見るとよくわかりますが、同区間は遺跡を避けるかのように若干膨らんでから駅に進入する経路を取っています。

この後は青森港まで行き、フェリーで函館まで参ります。ここで青函間のフェリーについて申し上げますと、津軽海峡フェリー青函フェリーの二者が競合している状態ですが、前者は観光向け、後者は貨物輸送向けと一般的に言われており、値段も後者の方が若干やすいです。いずれも一長一短といったところですので、目的や値段に応じて選ぶと良いでしょうし、いずれも外れはないと思います。

 

さて、次は函館〜北海道編です。

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今更旅行記-⑤奈良

さて、ふたたびの奈良でございます。奈良の魅力に取り憑かれ始めたのもこのころでしょうか。

今回の行程は、

①夜東京発〜②朝京都着〜奈良メイン〜京都〜大阪〜③東京着

というルートです

f:id:unknownhuman12340:20190221232120j:imagef:id:unknownhuman12340:20190222071656j:image

まずは春日大社でございます。もとは中臣氏(=藤原氏)の氏神を祀っていたところですが、中世以降は近くの大寺院・興福寺(こちらも藤原氏の氏寺で関係が深い)と結びつき、神仏習合の様子を見ました。興福寺の僧兵は神鏡がついた榊の枝を持ち出して強訴を行なったといいます。

次に平城宮跡に参りました。

f:id:unknownhuman12340:20190222181647j:imagef:id:unknownhuman12340:20190222181452j:imagef:id:unknownhuman12340:20190222181812j:image

平城宮とはその名の通り平城京の宮殿で、今では近鉄奈良線が横切っています。大和西大寺〜新大宮の間の広大な空き地のようなところは宮跡で、特に現在においては太極殿が復元されています。

さて、ここで平城京について申し上げましょう。平城京は、710年にこれも奈良県藤原京から遷都されたところです。この宮が置かれていた時代は概ね奈良時代と称されていますが、例えば聖武天皇恭仁京難波宮紫香楽宮など、政変の連続に伴って様々に遷都させていますが、やはり結局平城京に還都しました。ところで、平城京には興福寺薬師寺東大寺はじめ、さまざまな寺社があり、勢力を拡大しました。それが長岡京平安京の遷都につながった訳ですが、現在の京都の寺院を見てもわかる通り寺社勢力の完全な排除、というよりかは「既存の」寺社勢力の排除という方が正しいと思います。

そのようにして平城京は、いうなればうち捨てられた、ということです。確かに現在は外京(東大寺とか奈良公園のあたり)が中心地となってしまっていて、平城京の域内に田園風景が広がっていることはそれを裏付けるかのようです。ちなみにこれに比して京都では、街全体で寺社の保存を行い観光地化してきた、ということはまた有名です。

さて、次は薬師寺です。f:id:unknownhuman12340:20190223193654j:image

薬師寺といえば、フェノロサが「凍れる音楽」と評価した東塔や、本尊の薬師如来像が極めて有名です。東塔は現在修繕工事中ということで覆いが被せられ見ることはできませんが、後年復元された(、というのも一度焼失した)西塔は見ることができます。金堂も西塔も最近色を塗り直されたようで、とても鮮やかです。また、薬師如来像についてはまさに白鳳文化の中心的存在として有名です。特徴的なのはその座台で、他と違って特に蓮華などいったものではないわけですが、その彫刻には明らかにシルクロードを通ってきた西方の文化の影響を色濃く感じることができます。やはり当時の奈良というのはシルクロードの東の終点であった、ということができるでしょう。

春先に行ったので梅が綺麗でした。

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薬師寺から1本道のすぐそこ、次は唐招提寺です。

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唐招提寺は言わずと知れた、鑑真和上の造営した寺院ということで広く知られています。金堂には仏像が3体あり、その一体は極めて特徴的な千手観音です。普通千手観音の腕は、「一つの腕で25の世界を救う」とされているので42本程度くらいしかありませんが、唐招提寺のものは約1000本(正確には何本か欠けているのか、953本らしい)あり、25000の世界を救うことになるということになるかもしれませんが、やはりそれだけ徳がお高いと見えます。ちなみにこのように、腕が1000本あるものとしては葛井寺壽法寺のものがありますが、やはりごく少数です。このほかに鑑真和上の坐像(のレプリカ)などもありました。実際教科書通りのものでした。また、正式に僧と認めるための施設、戒壇跡もありました。f:id:unknownhuman12340:20190223194316j:image

さて、次は東大寺、特に正倉院です。中学歴史、高校日本史の教科書などでは必ずでてくる校倉造の最たるものです(ちなみに校倉造の建造物自体は様々なところに、例えば唐招提寺の倉庫などにも見ることはできる)f:id:unknownhuman12340:20190223180449j:image

中には聖武天皇の宝物などが収められていましたが、現在はこの写真の左側にある宝物殿に収められています。教科書で見ると、意外とそこらへんの倉庫のような大きさかと思われましょうが、実際のところは予想外に大きく、初見では圧倒されるくらい謎の威圧感を感じるほどです。f:id:unknownhuman12340:20190223194433j:image

少し正倉院から離れると大仏殿なども見ることができます。

ところでここに行った時は3月の頭であったことから、東大寺においては二月堂で「お水取り」をちょうどやっている時期だったのですが、私はそれを知らなかったのですっかりスルーしてしまったので、勿体無いと思う所存でございます。

この後は北野社の参拝のため(と肉まん)だけに京都に参りました。やはり梅が美しかったです。さすが菅公の詠んだだけあります。f:id:unknownhuman12340:20190223194633j:image

肉まんに関しては、大阪難波名物の551肉まんの京都駅内にある店舗です。f:id:unknownhuman12340:20190223194905j:image美味しいよね。

この後は大阪梅田に行き、バスで東京まで戻りました。

今更旅行記-④いい日旅立ち〜西へ〜-⑶京都・奈良

さて、最終日でございます。やや写真が多めなので文章が少なめです。

さて、広島から京都につきまして、まず参りましたのはf:id:unknownhuman12340:20190221170509j:image

有名な八坂神社前の交差点にあったローソンです。今は無くなってしまいましたが、「周りの景観に合わせて工夫した例」などで中学社会の教科書に載っていたような気がします。

まずは右京区太秦広隆寺でございます。f:id:unknownhuman12340:20190221204159j:image

目的はもちろん半跏思惟をしている弥勒菩薩さんです。よく言われるように尊いの極みでありました。広隆寺は京都に数ある寺院の中でもずば抜けた歴史があり、飛鳥時代からある寺院です。同時代の寺には四天王寺法隆寺などがありますが、ほかの寺院は奈良県にあるのに対して広隆寺は京都にあります。

つぎは六波羅蜜寺です。f:id:unknownhuman12340:20190221211117j:imagef:id:unknownhuman12340:20190221211138j:image

六波羅」はその昔平清盛の居館があった場所で、境内に「此付近…」の石柱(写真)がありました。鎌倉幕府中後期、承久の乱の後においては京都の監察として六波羅探題がおかれましたが、ただ、この清盛の居館跡と京都御所はあまり関係ないような気がしますが、実はそういうわけでもなく、京都御所にそこそこ場所が近く空いていた大規模な建物ということで、清盛の居館を改築してできたため、このような名前になっているのです。建物自体はこじんまりとしており、色なども最近塗られたようで綺麗です。六波羅蜜寺といえば「市の聖」こと空也上人像や平清盛像が有名で、隣同士で並んでいます。空也上人像の口から出ている枝みたいなもの、あれは「話す言葉の一つ一つが仏となって出てきた」という伝説に基づいた小仏像です。実物をよくみるとはっきりわかりました。その発想は実に個性的なものであります。その隣にあった平清盛像は、出家したのちの入道の姿の像です。目の感じが実にリアルで視線を感じるほどでした。場所が少々入り組んでいてわかりづらいところではありますが、周りは建仁寺などもあり、そこも回ってみるといいと思います。

次は北野社です。

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大宰府社も行った後にここに行ったからさぞやご利益はあることかと思っております。度々行っているのでここで行った時に何をしていたのか実はあまり覚えていませんが、このときは猫がいて戯れていた記憶があります。「東風吹かば匂ひおこせよ梅の花主人なしとて春な忘れそ」という歌は有名ですね。いつも気になりますが、「春な忘れそ」「春を忘るな」という二通りの書き方が見受けられまして、前者は「春を忘れるな」、後者は「春を忘れてはいけないよ」というような訳(つまり禁止か念押しか)になるわけです。文献的には「春を忘るな」の方が古くから載っているらしいですが、個人的には「春な忘れそ」の方が語感的に柔らかく、語りかけるようなイメージを感じるので、こちらの方が好きです。しかし行ったのが12月末の真冬だったので、梅など咲いているわけないのですがね。

ランチ

f:id:unknownhuman12340:20190221215613j:image一銭洋食でございます。広島焼きとはやはり違います。皮が薄く中身が厚いという点で、お好み焼きとはまた違った感じです。

この後は奈良に移動しまして、前々から法隆寺に行こうということで行ってまいりました。

f:id:unknownhuman12340:20190221211123j:image行ったところちょうど鐘が鳴り、「柿食へば鐘がなるなり法隆寺」という有名な正岡子規の俳句を思い出しましたが、残念ながら柿を食べていなかったのでどうしようもありません。

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日本、そして世界最古の木造建築でございます。とは言いますが、この近辺に若草伽藍跡がありまして、そこが創建当初の位置だとされています。それにしてもやはり最古の木材建築で、やはり歴史と荘厳さを感じます。広隆寺と同じく飛鳥時代の寺院で、厩戸王(聖徳太子)が深く関わっている寺院です。法隆寺飛鳥時代からの大寺院として、創建時から奈良時代など、様々な時代の文化が一堂に会しているところといっても過言ではないでしょう。

法隆寺の建築および釈迦三尊像百済観音像は飛鳥文化のもので、個人的な印象ですが仏像に関してはほっそりしている感じがします。ちなみに、同時期の玉虫厨子奈良国立博物館にあります。教科書などでみると小さそうに感じますが、隅に「210cm」とあるように実は結構大きいものです。一方で金堂壁画は少し後の白鳳文化のものです。これに関してよく言われるのは、西方文化の影響が見て取れるということです。金堂壁画や中国の莫高窟の壁画、インドのアジャンターの壁画はそれぞれ共通点が見て取れますが、これは日本が終着点になっていたシルクロードの影響であると考えることができます。

隣には夢殿があります。こちらは時代がもっと下って、奈良時代天平文化のものです。八角形の建物が特徴的でした。ちなみにさらにこの隣には、尼寺であったとされる中宮寺があります。中宮寺にも有名な菩薩半跏像がありますが、当時はすっかり失念しておりまして行っておりません。今度は斑鳩のあたりをゆっくり回ってみたいと思います。f:id:unknownhuman12340:20190221224503j:image

ちなみに東京国立博物館には「法隆寺館」なるものがあります。こちらは、明治時代に法隆寺から明治天皇に献上された小仏像などが展示されており、そのほとんどが金色をしているところにライトアップがなされているため、配置なども実に面白いことはさることながら、やはりほとんどの仏像が新羅百済などといった海外製であることが特徴的だと思います。日本の仏像とは全く雰囲気が異なるものです。

 

この後は大阪に行って帰還することになりますが、時間がかなり有り余っておりましたので道頓堀と心斎橋のあたりに行きました。f:id:unknownhuman12340:20190221224717j:imagef:id:unknownhuman12340:20190221224720j:imageびっくりしましたね、日本語が聞こえないの。さぞかし外国人に人気の場所だなと思いました。たこ焼きはタコが丸々1匹入っていたのが面白かったので写真に残しました。

 

さて、これにて旅行の全行程が終わりました。この旅行は実にためになるものだったと1年近く経った今でもよく思います。今度行くときはゆっくり見て回りたいところなどをさまざま発見できたという意義をもってこの旅行を締めました。

 

今更旅行記-④いい日旅立ち〜西へ〜-⑵松山・広島

さて、2(3?)日目は松山から参ります。早朝松山市につきまして、始発がないのでまだ暗いうちからJR四国三津浜駅まで歩きました。割と遠かったです。

さて、松山市に到着しまして、まずは道後温泉に参ります。f:id:unknownhuman12340:20190220182219j:imagef:id:unknownhuman12340:20190220182226j:image

道後温泉といえば夏目漱石の『坊ちゃん』です。だからなんだという話ですが、中の大風呂には看板があり、話中に出ていたものと同じであって面白かったです。建物は古めかしく趣がありましたが、この建物は現在改築中です。

坊っちゃん列車なるものもありました。昔は実際蒸気機関で動いていたらしいのですが、現在はディーゼルのようです。

愛媛といえばf:id:unknownhuman12340:20190220190536j:image

 

さて、この次に参りましたのは松山城です。f:id:unknownhuman12340:20190220190635j:image備中(岡山県)にも「松山城」なる城があるので、こちらは伊予松山城とも呼ばれます。どちらも天守閣を持つ城郭です。天守閣といえば世界遺産の姫路城が有名ですが、そもそもの役割は物見櫓的なもの、それにしてもこのような大建築は無駄であるから、結局は大名の権力誇示のために作られたものです。似たようなものに「櫓」と言われるものがあります

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城下ではじゃこ天なるものが売られていました。ほんのり塩味がして美味しゅうございました。

 

この後は再び松山港に戻り、次は呉に向かいます。

途中、f:id:unknownhuman12340:20190220223539j:image音戸大橋なる橋をくぐりました。音戸は平清盛が開削したというあの音戸の瀬戸にかかる橋で、両脇の山がちな地形を見てもやはり開削が妥当な場所だとわかります。

音戸の瀬戸といえば平氏政権の時代に遷都された福原京や、その外港である神戸(大輪田泊)への運送の効率化などを図って開削されましたが、それほど昔から瀬戸内海は水運の要衝であったと言えるでしょう。

さて、呉に到着しました。呉は帝国時代に鎮守府が置かれるなど、海軍の拠点として、現在でも海上自衛隊の拠点として続く港町です。f:id:unknownhuman12340:20190220222519j:image

ちなみにこの近くには造船工場があり、自衛艦(?)を造船していました。

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呉はやはり昔から帝国海軍との結びつきがあったため、また、造船所もあったために大和ミュージアムがあります。大和に限った話ではなく、旧帝国海軍のあらゆるものや実物を展示している、興味深いミュージアムでした。この写真のミニチュア大和は実に精巧な作りをしていました。細かいところは無論、よく見ると水兵が甲板に立っているなど、極めて細かいところまで作りこまれています。

さて、この次にランチということでf:id:unknownhuman12340:20190220223130j:image広島焼きでございます。下に焼きそばがあるのが特徴的で、関東などでよく見るお好み焼きとは若干異なりました。京都の一銭洋食などとも異なり、なるほど地域性があって面白いものです。チーズ広島焼きもあり、実に美味しそうでした。

さて、この後は呉駅から呉線に乗って広島駅に向かいます。この旅行後、西日本豪雨によって呉線などは土砂崩れで被災してしまい、現在も徐行運転など影響が残っています。被災者の皆様の一日も早い復興をお祈りいたします。

さて、広島に着いたのは夕方f:id:unknownhuman12340:20190220223450j:image、そこから厳島神社に参りました。f:id:unknownhuman12340:20190220223454j:image遅かったので参拝はできませんでしたが、夜のライトアップが美しかったです。

厳島神社は装飾経である平家納経が納められていることでも有名ですが、なによりもその建築が特徴的です。海上における寝殿造で、突き出た部分には舞台があります。ここでこのような夜に舞をすることなどがあれば、神秘的なことこの上ないと思います。それほど美しく神秘的な場所でした。今度は昼間に来て参拝して見たいと思います。

鹿も多かったです

 

さて、この後は広島駅の方に戻りつつ原爆ドームを見ました。f:id:unknownhuman12340:20190220224506j:imagef:id:unknownhuman12340:20190220224510j:image太平洋戦争末期、1945年8月6日に原子爆弾が落とされた場所というのは言うまでもないことです。3日後の長崎への投下も合わせて、このような惨禍は二度と起きてはなりません。我々はこの戦争を反省するとともに、この時代を生き抜いて、戦後の日本を作り上げてきたたくましい方々への感謝も忘れてはいけないと思います。

 

さて、f:id:unknownhuman12340:20190220224937j:imagef:id:unknownhuman12340:20190220224943j:image夕食でございます。広島といえば牡蠣ということで、焼き牡蠣をたべました。生牡蠣は幾度か食べたことはありますが、焼き牡蠣は初めてでした。しかし、いずれにせよ海水の味は極めて濃く、なるほどポン酢の類は特にいらないものだと思いました。

ちなみに写真に写っているジョッキの中身はジンジャーエールですので誤解なさらぬように。

この後は広島駅周辺をふらふら歩きまわり、クリスマスということで通りがかりのサンタクロース(?)の人に飴をもらうなどしました。

 

その後23時頃にバスで京都に向かいます。

今更旅行記-④いい日旅立ち〜西へ〜-⑴九州

さて、長期間の旅行をした話です。

まず行程を申し上げます。

①東京-神戸六甲アイランド-阪九フェリー

②新門司港-門司-博多-下関-小倉-松山・小倉フェリー

③松山-道後温泉-石崎汽船-呉-広島

④京都-奈良-大阪

⑤東京

となっております。

では早速①②を見てみましょう。

まず大阪神戸〜北九州のフェリーです。阪九フェリー名門大洋フェリーと二者が競合しているようですが、今回私は安かったので阪九フェリーを選びました。f:id:unknownhuman12340:20190218220713j:imagef:id:unknownhuman12340:20190218223041j:image

瀬戸内海はどうやら物流の動脈的存在のようで、多くの船が行き交っております。フェリーに関しては、先ほどあげた二つ以外にも、別府の方面に行くフェリーさんふらわあ、宮崎の方に行く宮崎カーフェリーなどといったものがあり、四国方面ではオレンジフェリーなど、やはり豊富にあります。ちなみに東京から行った場合は、太平洋を経由して徳島に寄港し北九州に向かうオーシャン東九フェリーがあるので、ゆったりとした旅行にぜひとも使って行きたいものです。また、瀬戸内海を通るため明石海峡大橋などのライトアップは美しいのですが、広島の方を通るため夜景を期待しても、陸から少し離れているのであまり見えません。

さて、2日目に北九州は新門司港に到着しました。やたらご立派な建物でございます。f:id:unknownhuman12340:20190218221313j:image

門司港門司港はまた違いまして、門司港関門海峡で少々入り組んだ位置にあり、不便でありますからかは知りませんが、ひらけた新門司港をつくったのだと思われます。ちなみに沖合には北九州空港がありました。

さて、そこから1時間ほどかけて博多へ参ります。f:id:unknownhuman12340:20190218221659j:imageなにぶん九州には初上陸なので、駅だけでこんなに興奮しているようでは田舎者がバレてしまいます。それは置いておきまして、博多周辺は昔から商業都市港湾都市として栄えており、古来から大宰府などのように対中国の外交拠点として重要視されており、中世では博多と堺の商人が競って中国との交易を行っており、寧波の乱などでは実力行使があるなど対立もありました。現在でも関東からすると僅かながら異文化を感じるような場所であり(多分気のせい)1日もいられないというのが残念ではありました。

さて、九州に来たからには行きたいところがいくつかありまして、大宰府九州国立博物館吉野ヶ里遺跡であったのですが、九州国立博物館は時期的(年末だったので)に開館しておらず、吉野ヶ里遺跡はやや遠かったので、大宰府に参りました。f:id:unknownhuman12340:20190218222333j:imagef:id:unknownhuman12340:20190218222341j:imagef:id:unknownhuman12340:20190218222337j:image大宰府といえば…ということで、近くに梅ヶ枝餅なるものがありいただきましたら、なるほどなかにほんのり梅の香りがするおやきみたいなものです。美味しゅうございました。あと面白かったのはスターバックスですか、現代的な建築なんだかよくわかりませんけれども、木をふんだんに使った面白いものでした。f:id:unknownhuman12340:20190218222836j:image

さて本題です。大宰府とはいうものの、中途半端に天満宮しか行かなかったのはやはり時間がなかったためで、今度行くときはもっと時間を取って行きたいと思うものです。大宰府について申し上げますと、先ほども述べた通り古代日本の外交拠点として重要視されており、663年の白村江の戦いをうけて防衛機能が強化されました。それによって防人が徴発され、水城や大野城、基肄城などといった山城などが築かれました。この後は遠の朝廷として、九州地方での朝廷の出先機関として存続し、平安時代には格好の左遷先となったのです。菅原道真藤原伊周なんかはまさにそのような人で、政争に敗れたようなものが来たところです。(もちろん藤原隆家など、自ら望んできたようなのもいますが)

太宰府天満宮は「天満宮」、つまり菅原道真を祀っている神社ですが、これは昌泰の変で藤原時平に讒言されて左遷されたのちに雷神として清涼殿に襲来し、雷を落として混乱させたということで、北野天満宮での御霊会、ここ大宰府において丁重に祀られることになったわけです。

もう一人の藤原伊周について申し上げますと、こちらもやはり大宰左遷されてきた人物です。こちらは藤原道長との政争に敗れてここに来ました。ちなみに同時に出雲権守に弟の藤原隆家が左遷されましたが、その後中央に復帰したのち、今度は自ら大宰権帥として1019年に刀伊を武士団を率いて撃退したという人ですが、先に述べたように「眼病の治療のため」ということで自ら大宰府に行ったという人です。

ちなみに、大宰権帥の職は地味に江戸時代末期まで続いていて、明治維新の直前に廃止された職ですから意外と長く続いています。

その後は博多駅に戻り、うどんを食べるなどしました。うどんといえば香川の讃岐うどんが某うどんチェーン店の影響で有名ですが、博多のうどんも発祥の地を謳っているだけあって特徴的です。f:id:unknownhuman12340:20190219195331j:image讃岐うどんは一般に歯ごたえや喉越しが特徴的であると言われていますが、博多のうどんは大変柔らかいものです。また、柚子胡椒(胡椒といっても唐辛子)を入れて食べますが、つゆの味と引き立てあって美味しゅうございました。

この後は福岡市博物館に参りました。目的は様々ありますが、まず第一に有名な志賀島出土の「漢委倭国王」の金印です。f:id:unknownhuman12340:20190219195622j:image真贋などいろいろありますが、ここから出土したことから考えられことは、奴国が後漢と結びつくことができるほどの当時の日本における九州での有力勢力であったということでしょう。あるいは、西日本の勢力がもうこの時代、すでに一大勢力ができていたともいうことはできるかもしれませんが、この後は卑弥呼やその他倭国大乱などがあったため考えることは難しく、したがって前者の説が考えられます。邪馬台国との関連を考えてみることもできなくはないでしょうけれども、しかしそれにしても「奴」と「邪馬台」と名前は明らかに違いすぎ、また、時代も100年ほど変わるために考えにくいと思います。今後の研究が待たれるところで、私自身も興味深いと思っている部分です。

この後は、せっかく下関が近いということでフグを食べようと思ったため下関まで参りました。f:id:unknownhuman12340:20190219202215j:image関東では3、4000円するでしょうけれども、やはり現地では2000円程度と安くいただくことができました。やはりポン酢とフグは相性が良く、てっぴの食感が実に面白く、美味しゅうございました。

この後は小倉に戻り、松山・小倉フェリーに乗船して愛媛県松山市に向かいます。