とあるツイ廃のブログ

ツイ廃が140文字で抑えきれないなにかをただかきつくるもの

伊豆の旅〜③交通オタ的視点

伊豆の旅を鉄オタ的な視点から語ります。

実際鉄道に限らずバスとか船とかのオタクもやってますが、今回は鉄道しか乗っていないので、必然的ニ鉄道の観点からになるわけですが、撮り鉄ではないので、写真などという気の利いたものはございません。あしからず。

私はこのたび、行きも帰りも同じルートで行ったわけですが、私は私鉄沿線に住んでいて、JRで東海道方面の最寄駅は東海道線の列車が止まらず、川崎まで出なければなりません。しかし、しかしです。川崎まで出るよりも、横浜まで出た方が私鉄なので安く済むことから、横浜から東海道線に乗るというルートを取ったのです。

しかし、実はこれは2番目に安いルートで、実は一番安いのは相模大野を経由して小田原から出ると、小田原まで私鉄なので安いというのがあります。しかし乗り継ぎが不安だったので、割と勝手知ったる上記のルートを取ったのです。

横浜からは東海道線です。上野東京ラインなどとも言いますが、横浜に来てしまえばほとんど関係ありません。横浜からは、戸塚、大船などを通り過ぎて行きます。国府津では東海道線の旧ルート、富士山の山沿いを走る御殿場線が分岐しますが、そんなこと気にせずとにかく進んでいきます。ちなみに御殿場線は沼津で東海道線に合流するので、この旅行で使えなくもなかったのですが、なんせ単線で山がちと来たら時間がかかってしまいそうなので敬遠したのです。そうこうしているうちにお猿の籠屋の小田原を過ぎます。箱根へのルートでもあり、大雄山線なるものが分岐して行きますが無視して進みます。すると東海道線箱根山の麓、一気に山がちな地形になりますが、しかしすぐに海が見えてきます。早川〜根府川など、青空と海と道路と鉄道という取り合わせの風流さで割と有名な撮影スポットや、根府川駅の、割と高台にありすぐそこに迫っているように思われる海の絶景などで有名なところなどを通り過ぎると、横浜から1時間10分ほどで静岡県熱海駅に着きます。

熱海駅では、伊豆半島東海岸沿いを走る伊東線と、伊東駅から先、河津や下田まで結ぶ伊豆急行が分岐しています。最近こちらの路線には、特急のサフィール踊り子が設定されるなど、JRや東急(伊豆急の親会社)による伊豆半島東海岸の観光開発が進んでいます。しかし私は修善寺のほうに行くにあたり三島に向かうため、ここで乗り換えます。

乗り換えたのは沼津行きです。熱海駅での東海道線はたまに静岡や浜松行きもありますが、かなりの本数が熱海、函南、三島、沼津のほんの4駅をピストン輸送する列車です。ちなみにこのうち何本かは上野東京ラインとして、宇都宮線方面に(から)直通していくものがあります。高崎線方面に(から)は行きません。

さてこの沼津行き、たった4駅とはいえかなり濃いルートです。まず熱海駅を出てすぐ、函南まで長い長い丹那トンネルを通ります。通過に約6、7分くらいかかるくらいの極めて長いトンネルですが、これにより東海道線の使い勝手が良くなったといえます。先述の御殿場線は、このトンネルができるまでの東海道線のルートなのです。昭和9年(1934年)開通のトンネルですが現役です。いずれトンネルを抜けると、前には掘割に見え隠れしながらも富士山が見え、函南駅に到着します。あまり乗降はありません。すぐ出発すると3分くらいで三島駅です。右手には新幹線のホームがありますが、本数は1時間にこだまとひかりが3、4本止まるくらいです。

三島はJR東海の駅です。なんだったら函南からそうですが、ここで注意しなければならないのは、IC乗車券のエリア跨ぎをしていることです。

熱海まではJR東日本Suica圏ですが、そこからはJR東海TOICA圏です。各圏の「内」でSuicaを使う分には相互利用ができる(例えばTOICA圏内でSuicaを使うことは可能)ので問題はありませんが、問題は7跨ぐ」時にあるのです。問題と言ってもそこまで大したことではないですが、要するに自動改札で通れないので、精算機で切符を出してもらえとか、有人改札に行けとかそういうくらいです。従って、エリアを跨ぐ場合は事前に紙の切符などを買っておくべきだと思います。

さて、三島からは伊豆箱根鉄道駿豆線です。駿豆線は明らかに駿河・伊豆から取られたような名前ですが、実際は三島から修善寺に至るまで全て伊豆国を走る路線です。しかし昔は違い、上述の東海道線の旧ルート時代の三島駅駿河国にあり、後に丹那トンネル経由のルートでこうなってしまったという歴史を考えれば仕方ないことだと思います。水戸線奈良線と似た歴史的経緯があるのです。それはさておきまして、この路線の最大の特徴はとにかく揺れることだと思います。首が折れるかと思うくらいでした。しかし、それよりも車窓から見える富士山はまた良いものです。他にも沿線には伊豆長岡修善寺はじめ温泉が多いことからも、やはり観光に力を入れているのかも知れません。駅舎がきれいになっていたり整備されていました。

なんとなく鉄オタ視点から書いてみたのでそれだけです。オチもなにもございません。

伊豆の旅〜②伊豆長岡

伊豆の旅2日目でございます。

さて、2日目は伊豆長岡温泉に泊まったので、その近くの北条氏邸や堀越御所跡に参りました。

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まずは北条氏邸です。伊豆長岡温泉から伊豆長岡駅に向かって橋を渡り、渡り切ってすぐに狩野川沿いに歩いていくと、高校の裏手に小高い丘が見えてきます。この山は守山といいますが、さらに進むと北条氏邸跡があります。今でこそ野原に少し木が生えているくらいの場所ですが、3枚目の写真のように、裏に回り込んでみると石垣が残ったりしていますが。果たしてこの石垣は北条氏邸の遺跡はわかりませんが、一応申し述べておきます。

それはさておき、北条氏(*1)は鎌倉時代の執権ということはあまりにも有名です。祖先は桓武平氏と言われていますが、これは諸説ありよくわかっていません。ともかく、北条氏の拠点はこの邸宅跡のように伊豆国なのです。鎌倉時代、特に承久の乱以降は将軍の補佐という建前、実際は将軍を名誉職のように扱い政治の実権を握ったのです。(*2)しかし、元寇後の武士の困窮に伴う武家の不満、北条氏の強権に伴う御家人の排斥(*3)で北条氏への不満は高まり、そして遂に立ち上がった後醍醐天皇島流しにするという、超えてはいけない一線を超えてしまったが故に、足利高氏(*4)や新田義貞楠木正成らに北条氏(当時の執権は北条高時)は滅ぼされてしまいました。そうして、足利尊氏(*4)を中心とする室町幕府へと時代が移り変わります。

ところで、北条氏の興隆の発端は、のちに鎌倉幕府を開く源頼朝が伊豆に流されてきた時に北条政子と頼朝が恋仲になったということです。守山の付近には北条政子の産湯を汲み出したと言われる井戸もあります。f:id:unknownhuman12340:20200324191641j:imagef:id:unknownhuman12340:20200324191645j:image井戸の中は雑草が生い茂っていますが、一応水は汲み出せるようです。

閑話休題北条政子は将軍の奥方なのでそれなりに権力があるわけです。夫の頼朝、子の頼家、頼家の弟の実朝の相次いだ死後、まだ存命だった北条政子は「尼将軍」として、出家し尼になりながらも将軍の代行としての務めまでも果たします。死の4年前に起きた承久の乱(1221年)に際し、「皆心を一にして奉る[聞く]べし。これ最期の詞なり。故右大將軍[頼朝] 朝敵[平氏]を征罰し、関東を草創してより以降、官位と云ひ俸祿と云ひ、其の恩既に山嶽よりも高く、溟渤[海]よりも深し。報謝の志これ淺からんや[浅いことがあろうか、いや、深い。]。而るに今逆臣[後鳥羽上皇]の讒[讒言:言いがかり]に依り非義の綸旨[理にかなわない天皇の命令]を下さる。名を惜しむの族は、早く秀康・胤義[藤原秀康と三浦胤義。いずれも後鳥羽上皇方で、胤義は秀康に説得され上皇方で参加した]を討取り三代将軍の遺蹟を全うすべし。但し院中に参らんと慾する者は、只今申し切るべし。」(『吾妻鏡』。Wikipediaより引用、[ ]は引用者注)というように、「頼朝の恩は山より高く海より深い」「頼朝に報いよ」と、武士に演説した話などは有名です。これにより北条氏は武士の支持を得て、承久の乱北条義時・泰時らが率いて圧勝し、北条氏の全国支配を固めたと言えます。(*5)

さて、次はすぐそこにある堀越御所跡です。

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例によって草原ですが、かつては池などがあり割と荘厳な建物だったと言えましょう。それもそのはず、堀越御所は「室町幕府の」出先機関だからです。

場所は近いのに300年ほど時代がずれます。これは戦国時代の最初期の遺構なのです。

ところでまずこの説明をするにあたって、室町幕府の関東地方の支配体制を説明しておきます。乱の名称と細かい流れなどは注釈(*7)を参照してください。室町幕府は、前時代まで幕府があった鎌倉(*6)に、関東を統括するため鎌倉公方をおき、その補佐として関東管領をおきました。いわばミニ幕府、仕組みもそっくりです。その鎌倉公方の初代が足利尊氏の四男・足利基氏関東管領は上杉氏で、いずれもそれぞれの子孫が世襲しました。しかし、その関係は良好とは言えず、①関東管領上杉氏憲鎌倉公方足利持氏に反乱を起こしたり、②今度は幕府が持氏を滅ぼしたり、③その子の鎌倉公方の成氏が関東管領上杉憲忠を殺したりでまさにカオスでキナ臭い世の中になったのです。実際、関東の戦国時代はこの頃から始まったと言えます。(*7)

さて、堀越公方は上記の③にあたる、成氏が関東管領を殺したという出来事をきっかけにできたのです。成氏が関東管領を殺したのち、室町幕府の追討軍から逃れるために茨城県の古河に逃げます(古河公方)。その追討軍を率いたのが足利政知で、伊豆のこの場所に拠点(=御所)を置きました(堀越公方)。こうして、関東を取りまとめる鎌倉公方は古河と堀越に分裂し、同様にして関東管領の上杉家も扇谷・山内(*8)に分裂し、それぞれお互いに争っていましたが、この後堀越公方北条早雲(*1)が攻め込んできて滅ぼされます。結局北条早雲が漁夫の利を得たみたいな状況ですが、とにかくカオスだったわけです。

堀越公方自体割と渋い感じのところですが、関東地方における戦国時代の起こりを(勉強すれば)感じられる場所だと思います。

さて、まとめとして、伊豆は東京や横浜から日帰りで行ける温泉地だということがわかったので、ゆっくりしたい時にはぜひ行きたいと思います。また、今回ほとんどスルーした『伊豆の踊子』(川端康成)や石川さゆりの「天城越え」を辿ったりしてみるのもいいなぁと思ったりしています。実際、天城峠や浄蓮の滝は修善寺から南に、河津の方に行くとあるのです。

 

注釈

(*1)北条政子から鎌倉幕府の執権になった北条氏と、戦国時代に堀越公方を滅ぼし小田原城を拠点とした北条氏は血縁関係はない。拠点から、前者を伊豆北条氏、後者を小田原北条氏と呼んだり、あるいは特に後者の北条氏を後北条氏と呼んだりするが、その初代・北条早雲は伊勢宗瑞が名乗った名であり、堀越公方を滅ぼした際も伊勢を名乗っていた。

なお、後北条氏堀越公方の征討後、関東8カ国(常陸・上野・下野・安房・上総・下総・武蔵・相模)と甲斐・伊豆を勢力圏にした大勢力となる。

(*2)将軍は初め藤原摂関家(九条家)から迎え、のちに皇族から迎えるようになる。前者を摂家将軍、後者を皇族将軍と呼ぶが、いずれも皆20歳ほどで退任させられている。

(*3)例えば安達泰盛平頼綱など。これにより、北条氏の専制政治(得宗専制政治)が成立。

(*4)初めは北条高時にちなんで足利高氏を名乗り、後醍醐天皇の信を受け尊氏(後醍醐天皇の名・尊治にちなむ)に改名。

(*5)承久の乱の前までは、東国は鎌倉幕府が、西国は朝廷がそれぞれ支配する形だったが、朝廷が敗北し、朝廷側の土地は幕府に没収され、朝廷監視のため六波羅探題が置かれたことで、朝廷は軍事行動が取れず幕府に干渉される形になったということで、幕府(北条氏)の全国的支配が成ったと言える。

(*6)前の幕府があった場所ということは、前の幕府に忠誠を誓っていた武士の言わば聖地になりうるということが考えられる。それを抑えるために置かれたと言えよう。

(*7)鎌倉公方と上杉氏の対立について

上杉氏憲足利持氏に起こした反乱:上杉禅秀の乱上杉氏憲足利持氏に不満を抱いていた。

室町幕府足利持氏を滅ぼした:永享の乱。6代将軍の足利義教は将軍権力の強化を図り、独立志向の強かった鎌倉公方を力づくでも抑えようとした。このために上杉憲実と足利持氏の対立を利用し、憲実側に幕府がついた形といえる。なおこの後、持氏の遺子を擁して結城氏朝が茨城県の結城城に籠城するという一悶着が起きた。これを結城合戦という。

③成氏が上杉憲忠を殺した:享徳の乱。この時点で1454年頃であり、これ以降関東地方では戦国時代に入る。一方、京では室町幕府に対して、借金の帳消しを命じる徳政令を要求する徳政一揆が頻繁に起こっていたが、京での戦国時代の突入は1467年の応仁の乱以降といわれる。

(*8)本家と分家の分裂。鎌倉の扇ヶ谷と山内に住居を構えていたのでこう呼ばれる。なお、扇谷家は後北条氏との戦いで戦死、山内家は後北条氏に追い詰められ、戦死や自害こそしなかったものの、その座を上杉謙信こと長尾景虎に譲り、守護代による下剋上が果たされた。

伊豆の旅〜①修善寺・韮山

伊豆は修善寺の方に参りました。

と、その前に経由地の三島で、三嶋大社に参詣したのです。f:id:unknownhuman12340:20200323185237j:imagef:id:unknownhuman12340:20200323185251j:imagef:id:unknownhuman12340:20200323185303j:image

三嶋大社奈良時代の文献に出てくるなど、東日本屈指の古社ですが、創建年代は分かっていません。平安時代には令制国(*1)に一宮以下神社に序列(*2)ができ、この際に伊豆国の一宮となりました。このように、古来から信仰厚く参詣者が多数あったために、鳥居の前に鳥居前町(*2)、いわば一種の商店街ができ、現在の三島の市街地(*3)の元になっているのです。

ところで、この“三島”は何を指すのかというと、これは伊豆半島の沖合に見える島、“御島”に由来すると言われており、その島は伊豆大島とも三宅島とも新島とも、あるいはその3島とも言われています。ただ、私は個人的に鳥居の方角などから考えて新島説を推してみたいところです。

現在(2020年3月)は、本殿と拝殿は何もしていませんでしたが、その手前にある舞殿が改修工事をしていました。各殿は重要文化財になっています。

さて、お昼を食べた後には修善寺に参りました。f:id:unknownhuman12340:20200323191531j:imagef:id:unknownhuman12340:20200323191545j:imagef:id:unknownhuman12340:20200323211640j:image

修善寺の地名はその名の通り寺院に由来しますが、当の寺院は「修禅寺」と名乗っています。普通は湧水だか水道だかの手水舎の水が温泉、階段の脇にはスロープが付いていてバリアフリーなどという特徴を除いては割と普通の寺院に見えますが、実は面白い歴史が多く残っているのです。f:id:unknownhuman12340:20200323211657j:image

なお以下、地名を「修善寺」、寺院を「修禅寺」と表記することとします。

ところで、「修禅寺」は「禅」からわかるように、修善寺は現在、禅宗曹洞宗の寺院です。ちなみに「修善寺」の表記も実は歴史的にあり、こちらは創建当初から鎌倉時代の名称です。この創建者が空海と言われています。f:id:unknownhuman12340:20200323191801j:imageそのため、寺の前には、空海が川の冷水で背中を洗う少年と父親に対して、独鈷(*4)で突いたらお湯が出てきたなどという逸話のある「独鈷の湯」と呼ばれる湧湯があります。f:id:unknownhuman12340:20200323201852j:imagef:id:unknownhuman12340:20200323201857j:image独鈷の湯には法的に何かあるらしいのと、割とぬるいので入れませんが、望める位置に足湯があります。

閑話休題。ここで、なぜ“鎌倉時代に”宗派と名前が変わったのかという至極簡単な考察をしてみますと、源氏がいたからということが考えられます。すなわち、武家の信仰が厚かった禅宗の寺院に変えたしたというわけです。なぜ源氏がこんなところにいるかというのは、それこそ頼朝と北条氏がこの辺りに深く関わっていたからといえます。頼朝は伊豆に流罪になり、北条氏はこの少し北の長岡を拠点としていたのです。(なお北条氏に関しては②で詳説します)

さて、修禅寺は源氏の動乱に関わっていることも割と有名だと思いますが、その最たるものは頼朝の弟・源範頼流罪と、2代将軍・源頼家の幽閉だと思います。

まず源範頼は、平家の追討に際してめざましい活躍をあげたものの、治承・寿永の乱(いわゆる源平合戦)や奥州合戦(*5)後のどさくさに紛れて「頼朝が殺された」というデマに接した際に、頼朝の妻・政子に「範頼ある限りご安心を」などと声をかけ、実はまだ生きていた頼朝に謀反の疑いをかけられ伊豆に流されてしまったいう人物です。その伊豆で幽閉されていた場所がまさに修禅寺です。その後範頼は修禅寺で誅殺されたらしく、寺の裏山の中腹に墓があります。

一方、2代将軍・頼家は、馬から落ちて急死したらしい頼朝の跡を継いで将軍になったものの、政治が独断専横で、北条氏はじめ有力御家人をほとんど無視したため無能扱いされ、重病を患い紆余曲折あって修禅寺に幽閉、その後北条時政により暗殺され、頼家の墓は修禅寺に対して川を挟んだところにあります。なおその後3代目の実朝が将軍になりますが、このとき政治の実権は、頼家の死により北条氏(*6)に移っていました。

このように、源氏に深く関わってきた修禅寺ですが、他にも、例えば三島由紀夫(*7)のペンネームは修善寺の研修に際し通った「三島」と、そこから見えた富士山の「雪」に由来するという話などのように、文豪にも割と関わりがある場所です。

さて、次は韮山反射炉に参りました。f:id:unknownhuman12340:20200324193811j:imagef:id:unknownhuman12340:20200324193650j:image

まずは反射炉とはなんぞやというところから始めましょう。反射炉とは鉄鋼や青銅(*8)を作る(精錬)ためのでっかい炉です。現在においては韮山反射炉は既に遺構であり、また、鉄鋼はこの方法では作られてはいないものの、反射炉の仕組み自体は銅やアルミニウムの精錬に用いられています。

金属を精錬する(つまり溶かす)わけですから、例えば鉄では1538℃以上の非常に高い温度が必要です。無論石炭だけではそんな熱を出せるわけはないので、どうにか温度を上げる必要があります。そういうわけで、反射炉では鉄を溶かす炉の内部をドーム状にし熱や炎を反射させ温度を上げ、金属を溶かすのです。ところでこの塔は煙突で煙が出ていくだけであって、本体はその下の箱の部分です。f:id:unknownhuman12340:20200324193847j:image


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写真にもチラッと写っている説明板を見やすいようにさらに説明すると、高温で溶けた鉄は緩やかな勾配を下り、出口に流れてきます。そして、今は痕跡しか残っていませんが、4枚目の写真の場所にあった型に出てきた液体金属が流し込まれます。自然冷却されたのち、反射炉の敷地に引き込まれた、5、6枚目の韮山古川(なお写真はさらに下流のもの)の水力を使い(故に敷地内には当時、水車があった。)大砲の砲口を開けたのです。

このような仕組みを持つ反射炉ですが、日本は幕末期、強大な力を持つヨーロッパ諸国に対抗しようということから軍事関係に注力するようになりました。そこで、吉宗の時代から徐々に盛んになってきた蘭学(*9)で入手した知識を基に、近代的(≒西洋的)軍備を行うこととなりました。そのためにはまず、鉄鋼はじめ金属の精錬技術の効率化が必要なのは言うまでもありません。そこで、例えば水戸や長州、薩摩の雄藩や江戸幕府反射炉を建造した(*10)のです。そしてこの韮山反射炉は、この中で江戸幕府が建造したものです。見ればわかるように、韮山では2基4炉建造されました。

初め、この韮山反射炉韮山ではなく下田に造られるはずだったのです。おそらく下田を軍港にする手筈があったからだと思われますが、1853年にペリーさんと愉快な仲間たちが来航し、下田に上陸してしまったので、急きょ場所を伊豆のど真ん中、韮山に移したとされています。建造当初は筋交型の鉄骨はなく表面は漆喰で塗り固められ外観は白かったとされるものの、明治時代にはほとんど使われなくなり、雑草が生い茂っているほどでした。しかし、修繕はなされていたようで、縦横に鉄骨を入れたり、昭和時代には筋交を入れるなど、現在まで耐震や補強の工事が行なわれています。

なお、韮山反射炉に限らず、萩反射炉やそれに関連する鉄山(*11)や炭鉱(*12)は世界遺産(明治日本の産業革命遺産)に登録されています。そんな最近のものは遺産になるのかとか、他の国の産業革命はどうなのかとかいろいろ議論はあるかもしれませんが、日本の産業革命は他の各国のものに比べ急激で一気に欧米の列強に並ぶレベルになったことを考えると、まあ妥当ではないかと思います。

1日目の最後は宿泊の場所である伊豆長岡です。韮山反射炉から線路と狩野川を挟んで反対側です。

伊豆半島には修善寺や熱海(は微妙だが)はじめ、様々な温泉があり、ここ伊豆長岡も有名な温泉の一つです。f:id:unknownhuman12340:20200323202757j:imageかつては芸者などが多くいたらしいものの、現在は随所に足湯があるなど、割と地味めな温泉街の様相です。

 

注釈

(*1)令制国:例えば武蔵国常陸国大和国のようないわゆる旧国名

(*2)鳥居前町:大神社の鳥居の前に形成される町。上記のように商店街のようなものだと言える。他に、例えば「門前町」は寺院の門の前に形成される。いずれも参拝客を相手とした商売が行われていた。

(*3)三島は伊豆国国府も置かれていたので、かつて「国府」(こう)などと呼ばれていたらしいが、鳥居前町の拡大で三島と呼ばれるようになったという。いずれにせよ国府関係の街と合わさったとも考えられるかもしれない。

(*4)独鈷:密教で使う道具(金剛杵)の一つ。空海真言宗真言宗東密と呼ばれる密教につながる。さて、金剛杵は、中央がデコボコして先端が細い棒と、先端が3叉になっている棒と4叉になっている棒などがあるが、独鈷は先端が細い棒。なお、3叉のを三鈷杵、4叉のを五鈷杵という。

(*5)奥州合戦:義経を匿ったとして、奥州藤原氏(当主は藤原泰衡)を頼朝ら源氏軍が討った戦い。これにより平泉が廃墟と化し寂れてしまった。

(*6)この時に、北条氏はじめ有力御家人らによる13人の合議制が成立し、将軍は名誉職のようなものとなっていた。そのため実朝が金槐和歌集を編纂したり文化に精を出すようになる。

(*7)三島由紀夫ペンネーム。本名は平岡公威。

(*8)青銅:銅と錫の合金

(*9)蘭学:オランダ(阿蘭陀)の学問。江戸時代に日本と国交があった西洋の国はオランダだけだった。そこから輸入されてくる洋書(オランダ語)を翻訳し、日本は西洋の技術や知識を取り入れていった。例えば「解体新書」は、オランダ語訳のドイツの医学書ターヘル・アナトミア」から翻訳されている。

(*10)萩の反射炉は煙突だけ残存し、世界遺産になっている。また、水戸藩反射炉那珂湊付近に復元されている。

(*11)例えば釜石鉄山

(*12)高島炭鉱(長崎)や端島炭鉱(いわゆる軍艦島。長崎)など。

夜行バスの魅力と船の魅力

船旅はもちろん大好きですが、そもそも高速バス出身ということもあるので高速バスの魅力と嫌いなところ、船の魅力と嫌いなところをそれぞれ考察します。

まず高速バスに関して確認しておきましょう。高速バスというのは高速道路に乗り、大都市間を輸送する点において路線バスとは異なる(高速バスに乗る路線バスもないことはないが、こちらは明らかに都市内輸送か中小都市圏輸送である)という定義がされると思います。関東では例えば、東京から水戸やつくばに向かう高速バスは極めて本数が多く、常磐線つくばエクスプレスと激しく競合していることはよく知られています。また、夜行バスに関しては東横・京阪間の高速バスは極めて本数が多くあり、こちらは新幹線や航空機と競合しています。いずれも競合相手よりも圧倒的に価格が安いというのが特徴で、例えば東横・京阪間の高速バスでは、最安値が¥1500ということで、東京駅から宇都宮あたりまで行くよりも安い、距離対値段の考え方を破壊するような価格で運行されています。(参考までに、東京大阪間は航空機は最安値のLCCが¥5000程度、新幹線は¥15000程度です)

さて、このような高速バスの魅力は何でしょうか?

その答えの一つは値段です。値段の変動は毎日あります(例えば金曜土曜は高いが水曜は安いとか)が、それでも圧倒的に高速バスは安いのです。また、時間に関しても鉄道に勝る場合が多々あります。例えば新幹線が通っていない在来線のみの区間で、あきらかに鉄道の乗り継ぎと待ち時間が多いということは往々にしてあり、その場合高速バスの方が早いというのは、地方においては特によくあります。先日乗った大阪ー徳島の高速バスなんかはそのような例です。

ところで、例えば私のような、旅行先を1カ所に限定しない周遊旅行をよくする人はもう一つ利点があり、それがまさに夜行高速バスを「宿代わり」にするというものです。つまり、長距離の移動と宿泊が同時にできる点で、移動にかかる余計な時間を削減できるのです。さらにいうと、0泊3日の弾丸旅行も可能です。例えば金曜夜に東京を出て、土曜に大阪に着きその日の夜に大阪を出て日曜朝に東京に着くという形で、週末だけで無駄なく旅行ができるという点は非常に魅力的だと思います。新幹線や飛行機にはできない芸当で、これらを使うと別に宿泊代が掛かってしまうのです。

しかし、無論これらが意味することは「疲れる」ということであるのはいうまでもありません。とにかく疲れるのです。並大抵の体力ではできないのが唯一の問題点と言えるかもしれません。しかし実はこれには対策があり、それは「疲れない席を使う」というものです。そんな席あるかいと思われるかもしれませんが、例えば3列独立席や2列席なるものなどのように、一人が使える空間を広くとった座席はあります。割と良く寝ることができるので多少は疲れにくいです。この場合1つ目の利点を犠牲にする代わりに2つ目を大きく活かすことができます。

こうはいってもここ最近高速バスをただ単純に0泊3日で使うことはなんとなく減っている気がしますが、これはただ単純に長期休暇における旅行先での時間を増やそうという考え方を取っているからで、単純に三連休くらいだったらこれからも0泊3日の旅は間違いなくすると思います。

ところでもう一つ、高速バスでの2つ目の利点を生かせる交通機関があり、それが船(長距離フェリー)です。最近ハマっているわけですが、あの酔いも引き起こすかもしれないが慣れてくると心地良ささえ感じるような揺れが頗るよいのです。

それは兎も角として、船の魅力というのは何でしょうか?

その答えはまさに環境にあると言えましょう。船の環境は海の上のホテルとは良く言ったもので、実際そうなのです。しかし、私にとっては住環境や揺れもさることながら、我々陸上生物にとってはいわば非日常の、あの海の上を走るというその毎度毎度新鮮な体験の虜になったのです。5日連続で船に乗っても全く飽きることがなかったあたりまさにそうなんだろうなぁと思うところです。その環境こそ、日程を1日分旅行に有効に使えるというのは、実は関西ー九州のフェリーだけで、北海道ー本州のフェリーはいずれも午後着なので割とできることが限られてしまうという事実を上回ってさえも魅力的であると言えます。

しかし、では悪いところはというと実はその環境に引き換え時間と金がかかりがちということなのです。時間はなんとか時間潰し、それ以前にフェリーに乗るような人は時間が有り余っているから乗っているにほとんど違いないので別に問題ないわけですが、本当に金がかかるのです。少し前までは各航路で最安値だったものが、LCCの発達で実は必ずしもそうとは言えない状況にあるという割と厳しい現状があります。しかし、実はそれだからこそ船が環境を良くしてきたとも言えるわけで、近年の新造船ブームなんかはまさにその流れの中にあると言えると思います。つまり、金の代わりに環境でLCCに勝負しようというわけで、果たしてこれがどう出ているかはまだ何とも言えませんが、フェリー会社側も追って対抗しているのです。客からしてみれば実に良いことです。

ところで、悪いところでもう一つ、私なんかは慣れてしまったのでなんとも思いませんが、船酔いというのはまた大きな問題です。私なんかはバスは大丈夫なのに自家用車は本当に酔うので、できるだけ狭い車には乗りたくないのですが、これと同じことは鉄道や車、そして最も起こりうるのが船なのです。船側もシーシック(船酔い)対策でそれ専用の流しを用意してあったり、揺れ防止の機構を整備したりと対策は重ねているものの、それでも我々陸上生物は揺れない大地の上で生活している以上、どうしても波の揺れには慣れないものなのです。これはどうしても残ってしまう悪い点ですが、酔い止めなどを飲めばいいということしかできないのは致し方ないことだと思います。

ぶっちゃけ「嫌いなところ」といっても嫌いだったらそもそも使わないわけで、使わないならこんな記事を書くわけないのです。したがってどちらもそれぞれに魅力があるからこそ使い分け、旅行の計画や道中も楽しんでいくというのが旅行の楽しみだと思います。

日本半周フェリーの旅③

さて、最終日です。北海道を離れた私は、さんふらわあさっぽろで関東地方に帰ります。f:id:unknownhuman12340:20200225111856j:image
f:id:unknownhuman12340:20200225111851j:image前も1回乗ったことがありますが、航路が結構便利なのでまた使いました。さんふらわあさっぽろは前も書いた通り、2017年就航で、新造船が結構多い今回の船旅で一番新しい(しまんと:2016年、すずらん:2012年)船です。ロビーが毎度毎度いい香りなのです。それはさておき、今回は低気圧の接近により、なんと日本海よりも揺れる太平洋でした。酔わなかったのでよかったものの、書いている時も陸酔いして、降りた後も揺れている気がします。船の中は新日本海フェリーオーシャン東九フェリーを足して2で割って、そこからフロントサロンを引いて雑魚寝スペースを足した感じです。やはり移動に特化した感じだと思います。

さて、茨城に着いたあと、私は実家で1泊し、水戸で用事があったので少し行き、そして弘道館偕楽園に参りました。f:id:unknownhuman12340:20200226202129j:imagef:id:unknownhuman12340:20200226202144j:imagef:id:unknownhuman12340:20200226202154j:imagef:id:unknownhuman12340:20200226202211j:image弘道館は言わずと知れた水戸藩校、幕末には攘夷思想を醸成する元となったところで割と有名かもしれませんが、実際は小学校から大学、ひいてはそれ以上の生涯学習を旨とする学校で、江戸時代中後期の水戸藩主・徳川斉昭によって設立されました。文武両道を目標とし、写真の4枚目、手前の広場は講武所のようなもので、ここで武術の試験かなんかをしていたようです。当時はもっと敷地があったようで日本最大の藩校だったようですが、現在は旧水戸市役所や茨城県立図書館などが旧敷地におかれ、当時の建物はこの程度しか残っていません。それもそのはず、戊辰戦争の中、明治元年弘道館の戦いで、尊王攘夷の新政府軍・天狗党と、旧幕府軍の諸生党による戦闘で焼けてしまい、さらに1945年の水戸空襲でほとんどの施設が焼失してしまったためです。しかし、我々はそのような歴史というのはほとんど注目せず、専ら梅の名所としてここにくるわけです。幕末の、薩長土肥に隠れがちで目立たないものの地味にそれと肩を並べる程度にあった水戸の熱い歴史も学べるので割とおすすめです。ところで最近このすぐ近くの大手門が復原されたことでニュースになりました。弘道館の資料展示室の、大手門のコーナーから見えるので展示室の造りがうまいなぁと思っていましたが、復元されたばかりなので木が綺麗です。f:id:unknownhuman12340:20200226203534j:image

さて、この後は偕楽園に参りました。

偕楽園といえば日本三名園(兼六園・後楽園・偕楽園)の一つとして有名ですが、特にその梅で有名だと思います。ちなみに去年まで入園無料でしたが、今年から¥300かかります。本当にどうでもいいトリビアですが、水戸納豆は偕楽園土産から始まったらしいです。閑話休題偕楽園は臨時の偕楽園駅(赤塚駅水戸駅の間にあり、土休日の昼間に下りの全列車が停車する)や、常磐神社の関係からそこが正門だと思われがちで、人も多くそこからきますが、実際はその裏のひっそりとした、茨城県立歴史館の向かい側の細い道から入るのが実はこの庭園を作った徳川斉昭の意図をよく感じられます。

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さてその意図とは何かというと、ずばり陰と陽の対比です。f:id:unknownhuman12340:20200226204428j:imageこの入り口から入ると竹林に出迎られますが、この鬱蒼として暗い感じのする光景はまさに「陰」の光景と言えるでしょう。

しかし、ここを進むと開けて陽の光によく当たることができる開けた梅林と、そして目の前には千波湖の広がる壮大な光景が広がります。f:id:unknownhuman12340:20200226204606j:imagef:id:unknownhuman12340:20200226204614j:imageこれがまさに「陽」の光景です。

このような意図と、あとおめでたい松竹梅は弘道館偕楽園いずれにもありましたが、そういうわけで、このように入ると偕楽園がよくわかると思います。また、このつくりは全隊として、藩校の弘道館の「一張」と、偕楽園の「一弛」ということも考えられていると言われています。併せて「一張一弛」と言われますが、弘道館の気を張り詰めた学問の世界から、偕楽園のゆったり気を弛める世界の、いわば切り替えを行うという目的のもと作られているわけです。なるほどよくできていると思います。

さて、今回の船旅は①でも述べたように、実は割と不本意なものでした。九州を回って来ていない点で一周していないのでやや気にくわないので、今度はぜひ回ってみたいと思います。しかし、なんせ1週間かかるのです…

日本半周フェリーの旅②

さて、敦賀から乗るのは新日本海フェリーです。

新日本海フェリーというとたまに聞くのは「日本海の暴走族」というものですが、事実です。日本海を27ノット(約50km/h)で飛ばしていく姿はまるで巡洋艦の如しなどと言われる(よく知らない)らしいです。

冬の日本海は、たびたび来る低気圧の強風で激しく波打ち、通る船々を大きく揺らす荒波が起こるのが常ですが、私が乗った時はむしろ平静で、確かに多少揺れはしたもののずっと静かなものでした。f:id:unknownhuman12340:20200223165614j:image
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上のように、新日本海フェリーは揺れやすい航路であるからか、船内設備は極めて充実しています。

例えば映画なんかはもちろんカラオケや、風呂場には露天風呂やサウナもついているのです(露天風呂は冬にのるとただで寒い気温に加えて強い風でさらに寒いのは内緒)。また、船の前面は、フォワードサロンなる前面展望席があり、冬場は窓ガラスが危ないので展望は見られないものの、夏場は日本海が見られます。静かな場所なので落ち着きたい場合は良いと思います。寝台も前回出したオーシャン東九フェリーのような二段ベッド型の半個室の形で、ゆったりと眠ることができます。

今回乗った敦賀-苫小牧東港は、日本海側〜太平洋側の航路の故、津軽海峡を通ります。津軽海峡は前にも縦断(青森ー函館)しましたが、今度は横断です。日本海側から通るので、竜飛岬がはっきり見え、大間崎もよく見えました。f:id:unknownhuman12340:20200225110534j:image舞鶴-小樽では見えない景色です。

舞鶴-小樽繋がりで、新日本海フェリーに関しては、敦賀以外に関西からは舞鶴からも船が出ています。敦賀からは苫小牧東港(厚真町)、舞鶴からは小樽港に着き、いずれも深夜発20時頃着という形です。そのためいずれにせよどうしても北海道に1泊する必要があります。しかし、こう考えると昼間によく寝ておいて夜移動するという考えをするならば、北海道0泊3日の弾丸旅行ができます。絶対疲れるのであまりお勧めはしません。また、前乗った敦賀から新潟、秋田を経由して苫小牧東港に到着するルートもあります。こちらは昼行でわりと使いやすい気がします。

閑話休題。夜8時頃着いたので、南千歳を経由して札幌に行き、札幌で親族の家に一泊しました。翌日の大洗行きまで約20時間程度、朝起きて7時間程度あったので、札幌や千歳を中心に親族と一緒に周りました。そして18時、ほんの短い北海道の旅を苫小牧西港で終え、そして北海道を離れたのです

日本半周フェリーの旅①

船旅です。ほとんど船評と言ってもいいかも知れません。そのため文中心で写真少なめです。

日本「半周」とは具体的にはどこ行ったのかというと、東京〜関西〜北海道〜東京で、行程のほとんどをフェリーに乗るという、要するに船に乗りたいがためにした旅行と言って差し支えないものです。なぜフェリーに乗ろうと思ったのかというのは、ただ単純にリフレッシュというのが一番大きいですが、読書もしたいというのも結構大きいものです。

ちなみに当初計画では一周でした。具体的には上の関西から九州に行き、また関西に戻り北海道に行くというルートを考えていました。残念ながらコロナウイルスが出たのでやらなかったものの、こちらは見所がいくらか回れる気がするのでいつかやってみたいものです。

さて、ではまず1日目から参ります。1日目は東京・有明港からオーシャン東九フェリーで徳島に参ります。有明港は国際展示場駅東京テレポート駅が最寄駅ですが、わりと歩く上に暗いので、送迎タクシーを利用するといいと思います。f:id:unknownhuman12340:20200223163252j:image

今回乗ったフェリーはしまんとでした。2016年就航で結構新しい船です。他に3隻ありますが、いずれもこれと同時期に就航しています。また、オーシャン東九フェリーではどの船もそうなんですが、移動に特化したフェリーということで、レストランなるものはありません。事前に買うか、オーシャンプラザなるところの自動販売機を使う形になります。寝台は二段ベッドの半個室的な形で、自分のわりと広い占有区域があるのでゆっくりできます。

オーシャン東九フェリー自体、徳島ではなく北九州が終点ですが、今回は行程上徳島で降りる形です。f:id:unknownhuman12340:20200223164624j:image
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この後の日程が極めてキツいので(1周だったら途中まで行けばいいのでここまでキツくはない)、徳島にはお昼食っての1時間くらい寄ったのみですが、正直ほとんど何もできなかったので今度ゆっくり行ってみたいものです。

さて、徳島から次は福井県敦賀港に向かいます。南海フェリーが隣のフェリーターミナルからでていたので和歌山から行っても良かった気がしますが、和歌山からだと船の乗り継ぎが極めて短時間どころかないに等しいので不可能と思います。約250kmとかいう頭おかしい移動は、大阪までバス、そこから全て鉄道でしました。新快速便利ですね。(先ほどから言っている九州経由ルートの場合、この道中の神戸で降りて行くのを考えていました)近江舞子くらいまではすごい混雑しますが、そこを過ぎるとだんだん減り、敦賀に着く頃には2、3人もいませんでした。

例年より雪が少ないらしいとはいえ雪の僅かに残る中、冬の日本海から北海道に向かいます