とあるツイ廃のブログ

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夏の関西旅行〜②遺跡系と京都国立博物館〜

2日目でございます。実は休日だったので、3日目に博物館関係に行こうとしていたらだいぶ予定が狂った(しかもそれに気づいたのが1日目の早朝)のは内緒です。

さて、それはおいておきまして、まず参りましたのは箸墓古墳纏向遺跡です。

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纏向遺跡というのは、弥生時代後期の遺跡です。付近(6km程度西)に唐古・鍵遺跡があり、詳しく比較するのはそちらでしたいと思います。こちらでは、纏向遺跡の最大と言える特徴、なんといっても当時の日本の政治の中心地だったと言われているところの、邪馬台国にまつわるお話を、ほぼ独自考察でいたします。

さて、邪馬台国の場所に関しては著名な2説があります。一つは畿内説、もう一つが北九州説(北九州市ではなくて九州北部という意味で)です。ほかに四国だの東遷説(日本書紀の、神武天皇の東遷伝説に合わせて)などがありますが、あまり現実的ではないと考えられています。まず畿内説を取ると、まさにこの纏向遺跡邪馬台国に当たると考えられます。その根拠として、第一に大規模な政庁らしき建物の跡(上写真。発掘調査に基づき柱の位置が再現されている)、第二に卑弥呼の墓(魏書における径百歩の大墓の記述。下写真の箸墓古墳と目されるが、時代が合わないという説もあり、そもそも魏志倭人伝上には円墳のような記述があるので違うかもしれない)という点です。一方で北九州説として、第一に大規模集落跡(吉野ヶ里遺跡など)、第二に魏書における方向の記述が挙げられます。しかし、いずれの説にも決定打に欠けるものがあり、その最たる原因は魏書における方向・距離記述の不明確さです。これにそのまま従うと太平洋の大海原に出てしまい、国が云々の話以前です。そこで、まず距離をいじってみた方のが九州説、方向をいじってみたのが近畿説です。色々言い出すのもできますけど、例えば羅針盤の使用を考えると、羅針盤はすでに後漢の時代にはあったものの、その使用方法は占術という全く方向性が異なるもの(だから長安や洛陽では皇帝が北にいるということもできる。なぜなら方位磁石は北にしか向かないので、それが転じて北は天子たる皇帝が居る方角なんていうもっともらしい理由がついたのかもしれない)で、六朝魏晋南北朝時代には指南魚というまさに羅針盤もどきみたいなものができたわけですが、果たしてそれを航海に使っていたのかという考察からしなければならないわけです。おそらく使っていないことはないでしょうけれども、先ほどの天子たる皇帝のいるところの洛陽を北として記述しているのであれば、それは90度程度(日本は洛陽のちょうど真西の方にある)ずらさなければいけない。それが方角をいじるというところです。一方で、距離の計測もなかなか分からないところです。第一単位がよくわからない。盛っている可能性だってある。そういうわけで、出来るだけ他の史料に当たりつつ構成してみることで、距離をいじるということになるわけです。そういうわけで、いずれも史料からはなんらかの校正が必要であることには変わりなく、先ほどの決定打に欠けるというのはこういうことなのです。個人的には実際にやってみないとわからないと思うところで、先日、中国だかどこかから沖縄まで丸木舟で行ったなどというのがありましたが、こちらも是非やってみれば極めて強力な根拠になると思います。

ということでどちらの説をとろうかというのはごまかしておきます。やる気があったら検証してみます。さて、その次に行ったのは唐子・鍵遺跡です。

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なぜこんな名前なのかと言いますと、単純に唐子地区と鍵地区にまたがっているからというだけで、史跡公園内には「唐子池」、少し離れたところに「鍵池」という江戸時代に作られた農業用水のため池がありますが、これらが示す通りです。

さて、唐古鍵遺跡というとまず有名なのが楼閣でしょう。現在建っているものは無論近年の復元のもので、しかも唐子池の隅の方に建っているものではありますが、おそらく「建っていたであろう」という証拠がまさに土器の彫刻にあります。

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やたら軒先がくるりと丸まっている、割と前衛的な感じを受ける意匠はここに由来しているわけですが、果たして本当にそうだったのかは誰にもわかりません。ただ、おそらくこの辺りでは祭祀が行われていたであろうということが推測されています。また、時代は約1000年近く降って太平洋戦争中には高射砲が設置されていたようです。また、環濠遺跡ということで堀の跡もあります。

さて、この唐古・鍵遺跡と纏向遺跡の関連を少し考えてみましょう。先ほど述べた通り両遺跡は距離にして6km程度、歩いて1〜1.5時間程度と極めて近隣だといえましょう。時代も唐古鍵遺跡の末期と纏向遺跡の初期でかぶるところがあります。しかし性質としては、纏向遺跡が政庁関係の跡地であるという説のほか、付近の自然崇拝で古来からある三輪山関係の祭祀遺跡とも考えることもできるかもしれません。先ほどの柱跡なんかは高床倉庫のものとも考えられています。つまり祭祀具関連の貯蔵庫と考えることもできます。ただ、そうするとなぜわざわざ三輪山の真正面に作らなかったのか(纏向遺跡三輪山大神神社は2km程度離れている。遠くはないものの、そんなに遠い場所に作る理由がよくわからない)という点で、やはりなんらかの都の跡と考える方がいいのかもしれません。一方の唐古鍵遺跡も、楼閣の存在(ただし物見櫓かもしれない)、こちらにも大倉庫の跡があることで祭祀関連の施設はあるものの、サヌカイトなど石器等の発見によりやはり集落跡といえましょう。事実そう取らないと環濠の意味がわかりません。

さて、唐古鍵遺跡から次は京都国立博物館です。

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前も一回国宝展やっているころに行った(というかそれがそもそも第一回の旅行の目的)わけですが、今回は平常展がどういうものなのかということで参りました。

日本には東京、奈良、京都、九州と、歴史民俗博物館(千葉・佐倉)、アイヌ民俗博物館(北海道・白老、2020開館)、科学博物館(東京)といった国立博物館があります。それぞれ博物館の個性があり、例えば奈良なんかは仏像がとにかく多く、京都は関西圏の国宝が数多く、東京は様々なものを広く置いてあり、九州は古代からの日中交易などといった関係の展示が充実しているといった具合です。

京都国立博物館に関しては方広寺(豊臣秀吉造営の寺院。刀狩で押収した刀で作られたらしい大仏と、家康の怒りを買って大坂冬・夏の陣の切掛となった鐘銘(君臣豊楽、国家安康)があった寺院ですが、現存せず、現在はそれを偲ばせる程度に豊国神社があるのみです。一方でその西側にできたのが京都国立博物館で、方広寺の門の跡が平成知新館の入り口に示されています。(前来た時は気づかなかった。なんたって混んでいたもので)

さて、京都国立博物館には先ほど述べた平成知新館と明治古都館があります。現在明治古都館の方は、耐震工事や発掘調査などで閉館しており、平成知新館のみが使用されています。企画展、常設展いずれもここでやるために、企画展がある場合には常設展が休止になるということで早い復帰を待ち望んでいるところですが、そういったわけで、今回は時期を見計らって常設展を見に行ったわけです。

私が面白いと思った展示としては、御伽草子の絵巻物のうち、「福富長者物語」です。そもそもここで初めて知ったわけで、知名度もあまりないと思われますのでざっとあらすじを申しますと、珍妙な屁の音が出る高向秀武なるおっさんが、その特技のおかげで財を成したことを聞きつけた隣のおっさんの福富なる人物が真似をしようとしたら脱糞してえらい目にあったとかいうなんとも滑稽な、あるいは馬鹿馬鹿しい話ですが、それよりも絵巻物の絵の緻密さというのはやはり見所があります。

この後、やや時間が余っていたので蓮華王院に参りました。

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三十三間堂とも呼ばれますが、これは本堂が33間(  m)あるためです。なぜこんな長いのかと言いますと、1000体の千手観音を並べているからです。千手観音は1000の世界を救うので、1000体いるということは、1000000の世界を救うといえましょう。また、このお堂の長さゆえに弓道大会( )も行われていたといいます。よく通せますな。

さて、そういうわけで2日目を終えまして、3日目に参ります。