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今更旅行記-⑧近畿地方〜⑴奈良

さて、今更旅行記シリーズも最後になりました。⑨以降は普通の旅行レポートになります。

今回の日程は、大阪に所用がありましたのでそれを済ませながら奈良を巡りつつ、伊勢に行き、名古屋に抜けるという近鉄が大活躍するものです。

①東京発〜②大阪着・奈良1泊〜③奈良〜伊勢〜名古屋 でございます。

まず②の奈良に当たるところから参ります。

去年の夏の話です。いつも平城京周辺に行くので、では今度は藤原・飛鳥京の方に行ってみようと思いたったのでございます。大和八木駅からサイクリングでしたが、実に楽しいものでした。

まずは藤原宮跡です。f:id:unknownhuman12340:20190227135017j:imagef:id:unknownhuman12340:20190227135021j:image藤原京において、宮というのは街区の中央に位置しました。その点で平城京平安京とは大きく異なりますが、これは平城京平安京長安をモデルとするのに対して藤原京が洛陽をモデルにしているからだと言われています。

さて、ここで藤原京に関して申し上げます。藤原京というのは694年(平安京遷都のちょうど100年前)に、各天皇が各治世の間にそれぞれ造営した飛鳥宮(浄御原宮とか板蓋宮とか)の形式を変え、何代かに渡る継続的な使用をめざし、女帝の持統天皇がここに遷都したというものです。ここも他の宮城と同様に条坊制が敷かれ、しかも平安京平城京よりもやや大きいものとなっています。また、他の宮の例に漏れず、太極殿や朝堂院の跡なども残っています。f:id:unknownhuman12340:20190227204141j:image

藤原京といいますと、大和三山の存在が挙げられます。畝傍山耳成山、天香山ですね。それぞれを読み込んだ和歌が万葉集にあり、「思ひあまり甚もすべ無み玉だすき畝火の山にわれは標結ふ(詠み人知らず)」「耳成の池し恨めし我妹子が来つつ潜かば水は涸れなむ(詠み人知らず)」「春過ぎて夏来たるらし白妙の衣ほすてふ天香山(持統天皇)」などがあります。特に一番最後の持統天皇の歌は百人一首などにもあるので有名です。ところでこの歌には「夏来たるらし」「夏来にけらし」あるいは「衣干したる」「衣干すてふ」と、微妙に異なったバージョンがあります。「夏来たるらし」の場合「夏が来ているようだよ」、「夏来にけらし」の場合、「夏が来たらしいよ」となるでしょうし、「衣干したる」だと「衣を干している」、「衣干すてふ」だと「衣を干すという」と、それぞれまた印象が異なるものになります。それぞれ後者が百人一首などの後世に伝わっているものですが、比較してみると前者は実際に夏頃に見聞したという臨場感があり、後者は夏を待ち遠しく思っているのか、あるいは伝聞を受けたかような印象を受けます。どちらがいいというのは判断がつき兼ねますが、私は感動を素直に読み込んでいると感じられる前者の方が好きです。

これに関連して、f:id:unknownhuman12340:20190227203019j:imagef:id:unknownhuman12340:20190227203005j:image天武・持統天皇陵にも行ってまいりましたのでここに貼っておきます。野口王墓とも言われている、古墳時代末期の八角墳です。文献資料などによってこの古墳は実際に天武天皇持統天皇が合葬されているということは確実視されていますが、1235年ごろに 棺や副葬品が暴かれて盗難されてしまっており、実物の確認は取れていません。ちなみにこの付近には装飾墳で有名な高松塚古墳などがあります。

さて、藤原京の話に戻ります。結局藤原京は、持統天皇以降文武・元明天皇の使用ののち、710年に少し北の平城京に遷都された後は荒廃してしまいました。

ところで、この時代には白村江の戦い以降で遣唐使が一時中断しているなどしていましたが、701年には藤原不比等や刑部親王が編纂に関わった大宝律令文武天皇の元で制定されるなど、律令国家建設が完成を迎えました。また、持統天皇自身、文武天皇に譲位して政務を行った(つまり日本初の院政が行われていた)ため、政治は安定していたと考えることができます。このため、白鳳文化が花開き、興福寺仏塔(もと山田寺の本尊の頭。鎌倉時代山田寺焼失によって興福寺に移されたという。)や法隆寺の夢違観音(悪夢を見たらこれに祈ればいい夢に変えてくれるという)などさまざまな仏像などが製作されました。

ところで、この時代頃から天皇は神と同一視される(いわゆる現人神)ようになったと言われています。f:id:unknownhuman12340:20190227205709j:imageここ雷丘では、柿本人麻呂が「大君は神にしませば天雲の雷の上に庵りせるかも」という歌を残しています。ちなみに雷丘には何があったかが諸説あり、雷丘やその周辺に推古朝の宮廷、奈良時代淳仁・称徳朝の宮廷(小墾田宮という)や、はたまた墓がある(雷丘の由来になった雷神伝説を残した人物が埋葬されていると言われている)とさまざまに言われていますが、中世には築城者や築城年代など全く未詳ではあるものの城ができたようで、これらが全て破壊されてしまったようです。

 

さて、時代は遡って次は飛鳥時代です。これも古墳時代にあたりますが、仏教伝来(538・552年のいずれか)〜大化改新頃を指すということが一般に言われているようです。最たるものでは聖徳太子こと厩戸王の摂政や蘇我氏の台頭などがあります。

さて、まずこの時代に一貫して存在した仏教について申し上げます。日本における仏教は、欽明朝の公伝(538年:「元興寺縁起」「上宮聖徳法王帝説」。552年:「日本書紀」)以前から渡来人による私伝(つまり個々人の信仰で伝わってきたということ)もありました。いずれにせよこの公伝もよくわかっておらず、

少なくとも欽明天皇百済聖明王から仏教関係の道具などを受けて伝来した、ということは確実のようです。その後、仏教を受容するべきと主張する蘇我氏(具体的には蘇我馬子ら)と原始神道を維持するべきと主張する物部氏(物部守屋ら)との間で崇仏論争がおき激しく対立しましたが、結局蘇我氏側が勝利し、推古天皇が擁立されました。これに際して飛鳥寺が創建されています。f:id:unknownhuman12340:20190227211749j:imagef:id:unknownhuman12340:20190227211816j:image

飛鳥寺、あるいは法興寺元興寺というのは、蘇我氏の氏寺として創始されました。鞍作止利(止利仏師)が製作したとされる大仏が有名です。f:id:unknownhuman12340:20190227211957j:image

仏像にしては珍しく撮影が許可されています。止利仏師製作に仏像は杏仁型の目、アルカイックスマイルなどを特徴としていますが、やはりこれも例に漏れずそのような特徴が現れています。そうはいっても度重なる落雷などの焼失でやはり被害は受けているようで、この像もかなりの部分が補修を受けているものと言われています。しかし実は大部分当時のものが残っているという説もありまして、実際のところよくわかっておりませんが、少なくともこの台座と仏像の位置だけは飛鳥時代からずっと動いていないと言われています。

この後平城京に都が移ると飛鳥寺の機能だか法人だか自体(というんだかわかりませんが)は平城京に場所を移し現在もある元興寺になり、現在まで飛鳥寺元興寺の二つがある状態で続いています。同様の寺院には薬師寺大官大寺(大安寺)などがあります。ちなみに薬師寺に関しては本薬師寺が飛鳥にあったもので、現在では礎石だけが残っています。また、一般に薬師寺と呼ばれるところは東塔や本尊の薬師三尊が極めて有名なところで、もう一つ、春日大社のあたりにある新薬師寺は、奈良時代聖武天皇の発願で建立されたものであると言われています。こちらは大きな目を特徴とする薬師如来坐像が有名です。

飛鳥寺は創建当時は金堂や東堂などを備えた、それこそ法隆寺などにも引けを取らないくらいの大規模な寺院だったとされていますが、現在ではほとんど縮小してしまっています。また、奈良市元興寺の方も興福寺の勢力拡大の一方で衰退したり、あるいは曼荼羅信仰などで勢力を盛り返したりなどしましたが、度々の火災で五重塔を焼失したり明治時代の廃仏毀釈でボロボロになったりなどしましたが、その後修繕されるなどして極楽坊など現在にも残っています。

飛鳥時代の仏教の話に戻りますと、飛鳥時代の寺院といったらそれこそ法隆寺中宮寺広隆寺なども上げることができるということも申し上げます。

さて、飛鳥時代で大きな勢力を持った蘇我氏厩戸王について申し上げますと、これは実に有名ですが、冠位十二階や憲法十七条、遣隋使の派遣などさまざまな政策を行いましたが、憲法十七条では「厚く三法を敬へ。三法とは、仏法僧なり。」などといった役人の心構えをしめしましたが、ここに見られるように仏教の扱いは極めて大きいものでした。また、遣隋使に関しては第2回で小野妹子を派遣し、「日出づる処の天子、書を日没する処の天子に致す、恙なきや(日出處天子致書日沒處天子無恙云云)」と、明らかに宗主国たる隋と対等に立とうという内容で煬帝の怒りを買いましたが、それでも返礼に裴世清を送るなどしています。しかし、隋は聖徳太子存命中に煬帝が暗殺され、新たに唐が起こるなどしていますが、初の遣唐使厩戸王死後の630年、犬上御田鍬を正使として実施されていますが、遣隋使・遣唐使いずれにせよ、中国に先進文化を学んで取り入れようという意図は共通するものです。また、冠位十二階についてはこの後の位階に発展し、さらには官職とも結びついた官位相当の制に発展するその基礎となったものということができます。上から、徳・仁・礼・信・義・智とそれぞれの大小で合計12の位を、それぞれ色分けした冠を与えるというもので、先ほどの小野妹子は最高位の大徳の位を得ています。このように聖徳太子は様々な政治改革を行いました。この背後にいたのがまさに蘇我馬子、というわけです。蘇我馬子は自らの権力を集中させるために崇峻天皇の暗殺を唆したと言われていたりしますが、何にせよ蘇我氏の発展の基礎(といっても次の代で終わるが)を築き、絶頂期の中にいたような人でもあります。その蘇我馬子の墓とされるのがが石舞台古墳です。

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石舞台とは言いますが、結局石室が露出しているだけで、実際墳丘などがあったと考えられます。周りの形からすると方墳の系統であったということは明らかで、上円下方墳だとか、二段からなる方墳だとか色々いうことはできます。いずれにせよ横穴式石室の大規模な古墳であるということが言えます。内部に入ることができますが、棺の類はほとんど持ち出されている(一説では乙巳の変によるもの?)ので何も残っていません。

さて、ここまで色々述べてまいりましたが、私はこれ以外にも橘寺やその目の前にある川原寺(弘福寺)も見てきたということを申し上げておきます。ところでこの二つの寺院に関しては僧寺と尼寺の関係があると考えられています。橘寺は聖徳太子が建立したとされています。二面石が境内にあります。ところで、飛鳥地方の石像はこの二面石以外にも、猿石や亀石、酒船石など色々ありますが、それぞれ何を意味しているかはわかっていません。仏教以前の信仰対象からインテリアというものまで様々考えることはできます。一方川原寺に関しては、天智天皇が発願したもので、古代では飛鳥地方でもかなり大規模な寺院であったと言われていますが、現在では寺院跡だけ残って衰退してしまっています。その後身に弘福寺があります。

さて、最後に中途半端に右側に写っている飛鳥水落遺跡を説明して締めとさせていただきます。

f:id:unknownhuman12340:20190227224446j:image飛鳥水落遺跡というのはさっくりいうと漏刻の跡です。漏刻は天智天皇が初めて作ったと言いますが、この水落遺跡がまさにそれだとされ、この写真に見える柱群の中央にその跡があります。

ここで漏刻については少し説明しますと、漏刻というのは端的にいうと時計の一種類です。当時の時計は日時計(太陽の動きに伴って、地面に刺さった棒の動きが変わることで時刻をはかる)や水時計、つまり漏刻がありました。どちらも時刻を測ることができますが、私見ながら日時計を太陽に基づく絶対的なものということができるとすると、漏刻はあくまで水を用いて一定の期間しか測れないため相対的なものということになるかもしれませんがどうなんでしょうか。経験で1日分に当たる水量が分かればそれこそ日時計より絶対的なものになったと思いますが。もしかするとどちらの機能も備えていて、時刻と時間をいずれもはかることができるものだったのかもしれませんが、それはさておき、日本の明治以前の時刻の捉え方について簡単に申し上げと、十二支で捉えていたのかわけです。(つまりは一日を12の単位で捉えていたということ。現代からすると2時間×十二支の24時間で捉えていたと言うことはできるが、当時そんな1分を60秒としたものが60分集まった、1時間という概念はなかったわけだからなんとも言えないわけだが、それにしてもなぜ東洋と西洋でどちらも12の倍数で捉えていたのかという話に関しては長くなるので割愛。あとで書くかもしれない)

さて、この水落遺跡が完成し、使われ始めた日が6月10日とされています。現在これは時の記念日とされています。

 

さて、このように色々巡ってきましたが、帰りに橿原神宮を回ろうとしてサイクリングのあまりの疲労のため断念しました。今度箸墓遺跡あたりとゆっくりいきたいと思います。

 

以上、長くなりましたが私が日本で最も推す場所である奈良県の飛鳥地方の話でした。一回これくらい書いてみたかったわけです。今でこそ田んぼばかりになってしまった場所も、様々な遺跡などがあることで往時が偲ばれるもので、またこういうところからの考古学的発見は実に面白く、興奮するものだと思います。

 

この後は八木に戻って1泊し、今度は伊勢の方に向かいます。すごい日焼けしました。申し訳程度の鉄道成分を出しますと、大和八木駅近鉄大阪線近鉄橿原線が交わっており、京都行くにも大阪行くにも名古屋行くにも極めて便利な場所です。関東でいうと小山駅でしょうか。橿原線の次の駅である八木西口駅大和八木駅と同一の運賃計算をなされていることで一部の鉄道マニアの間では有名な話です。

今更旅行記-⑦仙台

さて、⑥でわずかにしか行かなかった仙台をゆっくり巡ろうという目的で、仙台にゆっくり行きました。

今回の行程:1日目:東京発〜2日目:仙台着・観光〜3日目:東京着 でございます。

まずは多賀城です。f:id:unknownhuman12340:20190226162245j:imagef:id:unknownhuman12340:20190226162250j:image今でこそ跡としてしか残っていませんが、やや高台にあり、仙台を見下ろせるくらいの位置にあります。

多賀城について申し上げますと、多賀城とは奈良時代(724年)に造営され、当時の東北地方の蝦夷(朝廷に従わない人々)の制圧のために置かれた軍事拠点、あるいは鎮守府です。また、陸奥国府も置かれ、日本・大和の朝廷の出先機関としても存在しました。しかし、平安時代に入るとすぐの頃に、朝廷の対蝦夷政策に蜂起した蝦夷の族長であった伊治呰麻呂がここを焼き討ち焼失しましたが、その重要性からすぐに再建されています。その20年ほど後、鎮守府将軍征夷大将軍坂上田村麻呂はさらに対蝦夷戦線を北上させ、現在の岩手県奥州市にある胆沢城に鎮守府の機能を移転させました(これに関しては、胆沢まで進出してきていた阿弖流為<アテルイ>が降伏したことが背景にある。有名な話に、降伏した阿弖流為の武勇を見込んだ坂上田村麻呂阿弖流為の助命を嘆願したが、結局阿弖流為は処刑された、というものがある。また、この翌年には盛岡市に志波城を築城した。)が、それでも多賀城国府の機能は据え置かれていました。しかし、貞観地震(869年)で大きな被害を受けたことから徐々に国府の機能も失われ始め、結局平安時代の終わりころには荘園公領制の進展とともに有耶無耶になっていますが、それでも平安・院政時代に東北地方で発生した前九年の役後三年の役においては軍事拠点として重要な役割を果たしています。その後源平合戦の頃はもうすでに東北地方の中心は奥州藤原氏の拠点である平泉になっており、ここの衰退は目に見えるものとなっています。しかしその後においても、東北地方における何かしらの拠点にはなっていて、例えば完全に国府という制度が見られなくなった、室町幕府初期・建武政権時代の陸奥将軍府などが設置されています。(ちなみに足利義満の頃以降の室町幕政下における奥州探題とは別。また、この後に勢力を拡大する奥州守護・伊達氏に関していうとそもそも福島県が拠点である。)しかし、それらの後は特にこれといったものもおかれておりませんが、江戸時代に多賀城碑が再発見されたことで再び研究が始まったということです。

また、多賀城の裏手には廃寺があります。f:id:unknownhuman12340:20190226234512j:image大規模な寺院であったことは相違ありませんが、詳細はよく分かっていないようです。

さて、次は仙台城に参りました。f:id:unknownhuman12340:20190226234938j:imagef:id:unknownhuman12340:20190226234816j:image仙台城青葉城ともよく言われます。冒頭でも「青葉城恋唄」と述べた通りでございます。広瀬川が城のある小山の麓を流れ、いわば天然の要塞のようになっています。

仙台城天守閣を持たず、京都の二条城のような広大な屋敷がありました。現在その建物自体は残っていません(そもそも明治時代の軍制下で鎮台が置かれていたくらいなので)が、その礎は残っています。仙台城にはその通り仙台藩が構えていたわけです。初代仙台藩主は独眼竜こと伊達政宗公です。f:id:unknownhuman12340:20190226235355j:image

さて、ここで伊達政宗に限らず、伊達家に関して申し上げますが、なぜここで取り上げるかといいますと、私の地元に深く関わりがあるからです。

伊達家は茨城県西部の伊佐や栃木県南部の中村を発祥としています。したがってもともと伊佐氏と称していたのですが、伊達家初代当主の伊達朝宗が奥州合戦(源頼朝vs藤原泰衡奥州藤原氏が滅亡した戦い)において、源氏側で武勲を挙げたために伊達軍(現在の福島県伊達市)のあたりの土地を安堵され、(つまり与えられた)そこから戦国時代に至るまでに大きな勢力になります。しかしそれにも紆余曲折あり、南北朝時代南朝方につき、先ほどの伊佐城の落城などもあって北朝方に降伏しています。しかしその後、室町幕府と接近し鎌倉府に反旗を翻したり、戦国時代に入ると伊達稙宗陸奥守護に任じられ奥州探題を勢力下に置くなどして拡大し、有名な分国法である「塵芥集」を定めるなどしました。その後、安土桃山時代天正年間には伊達政宗が当主となりました。文禄の役に参加したり、関ヶ原の戦いで東軍(徳川家康側)についた譜代になる見返りに上杉氏に奪われていた勢力圏の奪還を許されました。その後家臣の支倉常長らをメキシコ・スペイン・ローマに派遣し(慶長遣欧使節)f:id:unknownhuman12340:20190227001931j:imagef:id:unknownhuman12340:20190227001936j:imageローマ教皇パウロ5世に謁見させています。その後、政宗豊臣秀頼の討伐である大坂の陣に参加し、その戦功により伊予・宇和島藩を得て、長男をそこに置き、宇和島藩が成立しました。幕末には宇和島藩仙台藩で、薩長政府に対する態度が真逆で、宇和島藩では藩主・伊達宗城は殖産興業政策を行い、明治新政府における議定になるなどして活躍しました。一方仙台藩では、戊辰戦争奥羽越列藩同盟側に与して敗北し、家臣は領地を没収されたために北海道に移住し、北海道開拓にあたりました。したがって北海道にも飛び地で有名な伊達市がありますが、ここも伊達氏が大きく関わっています。

このように伊達氏に限った話ではないと思いますが、ある一つの武家といっても様々な場所に関与しているものです。

さて、ここで少し出てきた慶長遣欧使節関係の写真は仙台市博物館に所蔵されていることをここに明記しておきます。件の写真の肖像画などは世界記憶遺産だかに登録されているものです。

仙台といえばグルメもありますね、牛タンとずんだ餅ですが。
f:id:unknownhuman12340:20190227003505j:imagef:id:unknownhuman12340:20190227003458j:image

ずんだ餅はこのとき初めて食べたのですが、なるほど枝豆なんですね。

 

申し訳程度の鉄道成分

仙台駅周辺を地図で見てみますと、あの辺りで曲げなければまっすぐ行ったものをやたら市街地側にカーブさせています。これは当時の仙台の先見の明ある商人などの人々が、当時の風潮(鉄道は病気を運んでくるなどいうデタラメ)にもかかわらず、これからの商業に役に立つであろうということから熱心に働きかけたことで、強引に曲げてでもあのように市街地に入ることになったのです。結果やはりその予想は当たっていたということはできるでしょう。現在直進で行くルートは貨物線になっています。

 

さて、伊達氏は私の地元に極めて深い関わりを持つということで大きく取り上げました。地元の歴史も少し調べてみると、市をあげてやたら推しているような人よりももっと重要な人の祖先がいたりなどすることがあるのでおもしろいものだとおもいます。

今更旅行記-⑥北海道・東北-⑶奥の細道

前も岩手県の方での奥の細道を題したものをやった気がしますが、今度は少し南の方の話です。

さて、苫小牧から仙台につきまして、まずは仙石線で松島(松島海岸)に参ります。途中の西塩釜駅は、ホームの端が岩を削ってあるという面白い作りでした。仙石線はその名の通り仙台と石巻を結ぶ路線で、東北の路線にしては珍しく直流電化です。これはもともと国鉄の系統とは別路線であったということを示しています。ちなみに終着のあおば通駅石巻駅の発車メロディは、それぞれ様々ある発車メロディの中でも屈指の名曲だと言われておりまして、私もそう思いますのでぜひ聞いてみてください。

さて本題、松島でございます。

 

f:id:unknownhuman12340:20190225181929j:imagef:id:unknownhuman12340:20190225181934j:imagef:id:unknownhuman12340:20190225181956j:image松島は「松島や ああ(さあ)松島や 松島や」と松尾芭蕉が詠んだという話がありますが、これは真っ赤な嘘で、実際は狂言師の田原坊という人物が作ったものです。そもそも芭蕉は松島で俳句を作っていません。その理由に松島の光景に感動したとかいうよくわからない理由がさまざまについて、それと先の歌が結びついたということでしょうか。ちなみに同行した曽良は「松島や 鶴に身をかれ ほととぎす」という歌を詠んでいます。それにしても、奥の細道の行程で松島を訪れたということは紛れもないことです。あと松島といえば牡蠣ですかね。f:id:unknownhuman12340:20190225182014j:image

その後瑞巌寺に向かいました。f:id:unknownhuman12340:20190225182158j:imagef:id:unknownhuman12340:20190225182202j:image

瑞巌寺は円仁の開基と言われていますが、実際のところよくわかっていません。仙台伊達家と関わりが深いところで、肖像画などがありました。

仙台に戻りまして、次は立石寺に参ります。仙山線は面白いですね、面白山高原もさることながら、仙台の都会から山中の田舎の景色を一路線で見ることができます。そんな仙山線を山寺で降りますと目の前に立石寺(山寺)があります。f:id:unknownhuman12340:20190225220202j:imagef:id:unknownhuman12340:20190225220219j:image

例によってここも円仁の開基だとか言いますが、よくわかりません。

江戸時代になりますと、ここには松尾芭蕉一行が訪れます。f:id:unknownhuman12340:20190225220543j:image

言わずもがな奥の細道のわけですが、ここで「閑かさや 岩にしみ入る 蝉の声」という極めて有名な俳句を詠んでいます。f:id:unknownhuman12340:20190225221152j:imageまあ行ったのは春先だったわけでセミも何もなく、ただ川と猫のいるのみということですが。

「閑かさや 岩にしみ入る 蝉の声」という歌はなかなか現実ではありえないような歌だと私は勝手に思っていまして、というのも、蝉は普通やかましくうるさいものであるからです。しかし、それはあくまでウン十匹も鳴いているような話、ここで読まれているのはきっと、周りの田舎で静かな中、一匹ポツンと「ミーン…」とか「ジー…」と鳴いている、そういう鳴き声の、写真のように切り立った崖への反響とそれの余韻を印象的に的確に捉えて表現しているものだと思います。実際聞いてみないとわからないものですがね。

さて、この後は山形駅に行き、例によってバスで東京に帰還しました。ここでも3列シートということで実に快適に帰ってくることができましたが、何より値段が安かったから、ということがあります。

 

この旅行では、特にアイヌ文化に関して様々な知見が得られたということが特に印象に残っています。未だ研究途上の分野なので、ぜひ研究などもしてみたいものです。それ以外にも、三内丸山遺跡などといった日本の始まりの始まりについてや、かねてから続いている奥の細道を追うものなども実に面白かったです。

今更旅行記-⑥北海道・東北-⑵北海道

さて、北海道編です。北海道は3日間おりました。前回は青森から参りましたので、到着先はもちろん函館でございます。

まずは五稜郭に参りました。f:id:unknownhuman12340:20190224135201j:imagef:id:unknownhuman12340:20190224135205j:image

五稜郭はその名の通り五角形(の対角線=星形)をしているわけです。幕末に築城され、明治初頭の戊辰戦争の最後の戦いである五稜郭の戦いの舞台となったところです。ちなみに長野県にも五稜郭様の城郭である龍岡城というものがあり、あまり有名ではない気がしますが、同時代に築城されています。

この函館というところは、日米和親条約の締結に際して函館と下田が開港されました。これに際し、江戸幕府が旧来蝦夷奉行(蝦夷地<=北海道>の幕府による直接支配を担当した役場)を外交担当として再編した際に、箱館奉行の移設先として五稜郭は築城されました。しかし、完成直後に幕府が崩壊し、先ほど述べた戊辰戦争で、南から逃れてきた幕府軍が籠城し、最後の戦いの舞台となったところです。旧幕府軍の指揮官は榎本武揚、また戦争中に様々活躍した土方歳三は函館で戦死したということは極めて有名な話です。f:id:unknownhuman12340:20190224140437j:image

榎本武揚はこの戦いの後捕らえられた投獄されましたが、敵将であった黒田清隆により解放され、明治政府の外交官などとして活躍しました。外交官として最たる活躍に、樺太千島交換条約の全権公使としてロシアと交渉したことが挙げられます。ここで千島樺太交換条約について述べさせていただきますと、両国人雑居であった樺太及び日露和親条約下では千島列島のうち得撫島と択捉島間の国境が定められていましたが、それをロシア側との交渉を経て、樺太をロシア領、千島全島を日本領にし、国境は宗谷海峡と占守海峡と定めたものです。ちなみに、こののち日露戦争を経て締結されたポーツマス条約においては樺太南部は日本領となりました。また、樺太に関して、(チェコスロバキア軍支援を名目に反共を目的に実施された)シベリア出兵の時期にあった、ロシアなどのパルチザンによる日本人虐殺事件である尼港事件なども記しておこうと思います。榎本武揚の話に戻りますが、この後、大津事件(ロシア皇太子ニコライ<=ニコライ2世ロシア革命で処刑されたことで有名>が傷害された事件。児島惟謙の司法権独立の話はあまりにも有名)をうけて退任した青木周蔵外相の後を継いだ(第一次松方内閣)りもしました。もう一人あげた土方歳三新選組副長とその美貌は有名ですね。また、榎本武揚の説明中であげた明治政府軍側の陸軍参謀、黒田清隆は北海道と実に関わりが深く、開拓使長官や第2代首相を歴任するなどしています。開拓使長官時代は開拓使官有物払下事件(開拓使の官有物を、政商の五代友厚らに無利子格安で払い下げた事件)に関わり、明治初期の自由民権運動を盛んにする原因を作ったような人でもありますが、首相時代は1889年に欽定憲法である大日本帝国憲法天皇から受け取る(絵などが有名)などしていました。

さて、話だけ長くなりましたので次に移りましょう。函館といえば何かというとイカですね。f:id:unknownhuman12340:20190224144248j:image美味しゅうございました。市場などいけば踊り食いの類ができるらしいですが、どこだかわからなかったのでここに行ったというのは内緒です。夜ということで、

f:id:unknownhuman12340:20190224144359j:imagef:id:unknownhuman12340:20190224144404j:image前者は倉庫群、後者は「函館といえば」みたいによく出る感じの函館山からの夜景です。このあとは函館駅から高速バスですすきの駅まで行きました。3列で¥4000程度と、関東などとのレートの違いを感じました。

 

翌日は私の親族のツテをたよって札幌から小樽に行きました。よく行くので物珍しいとかいうものは特に思い当たりませんが、一応有名な小樽運河をどうぞ。f:id:unknownhuman12340:20190224144801j:image一泊しましてその翌日は苫小牧に行くので、送迎ついでに登別から戻りつつ苫小牧に向かいます。登別といえばf:id:unknownhuman12340:20190224145056j:imagef:id:unknownhuman12340:20190224145017j:image地獄谷でございます。クマ牧場などでも有名な温泉地ですね。道中は樽前山と太平洋が両側に見えるという、実に面白いものでありました。ちなみに樽前山の北側には支笏湖がありますが、それは樽前山の陰に隠れて見えません。

その次はさらに苫小牧に戻りつつ、白老のポロトコタンでございます。f:id:unknownhuman12340:20190224145239j:imageポロトコタンとはなんぞやといいますと、写真にもある通りアイヌ民族関係の資料館、体験施設のようなものです。現在は国立博物館にするとかで、2020年頃まで休館しています。私が行ったのは実はまもなく休館するというギリギリ最後の方だったようです。

f:id:unknownhuman12340:20190224145451j:image北海道犬です。某大手携帯電話キャリアのお父さんと血縁があるとかないとか言います。和犬は可愛い。

f:id:unknownhuman12340:20190224145611j:imagef:id:unknownhuman12340:20190224145617j:imageアイヌの住居などが再現されていました。よく言われる話ですが、民族は住んでいる場所に対応した文化を形成すると言いますが、このような住居や衣服などを見れば明らかです。また、アイヌの楽器であるムックリ(口に挟んでビヨーンビヨーン鳴る楽器)の実演などが行われていました。なるほどムックリはただビヨーンビヨーン鳴るだけではなく、微妙に音程を上下させてさまざまな情景などを表現しているものです。

さて、ここで北海道とアイヌ民族に関して私見を交えつつ申し上げます。アイヌ民族は、現在でこそ日本の先住民族の一つとして認められているもので、例えば1997年にアイヌ文化振興法などが制定されるなどしています。しかし、それが制定される以前は明治時代に制定された法である「北海道旧土人保護法」に見られるように、差別的扱いを受けていたと言うことができます。おそらく日本の小中華意識(つまり日本を中華、周囲を夷狄とみなすような東アジア、特に中国の各王朝において見られるもの)や明治時代〜戦前の帝国主義の考え方よるものでしょう。小中華意識というものは日本における明治政府以前、江戸時代などにも見ることはでき、琉球王国の扱いや松前藩への献上を描いた絵画、また、蝦夷地(異民族や朝廷に従わない人間の地。古代でいうと東北地方の住民はまさにそのようであったため、坂上田村麻呂など征夷大将軍が征討した。「夷」の字自体、中華思想における周囲の夷狄<東夷、西戎北狄、南蛮>のうち東夷に含まれていることからも、いかにも異民族の扱いを受けていたと言えるであろう)と呼ばれていたことなどからもわかります。

時代は遡り日本で言うところの縄文時代から日本人とアイヌ民族の関係を見てみますと、縄文海進(縄文時代の海面上昇)以前、北海道と本州は陸続きであったということから、日本人と北方の居住者(ただしこれとアイヌは必ずしも一致しない可能性があるので、以降室町時代以降の考察に至るまではこの名称を用います)の行き交いは自由、その後も弥生時代などにおいても船による行き来などは十分にできたので、この時代においてはアイヌと古代日本人の違いはあまりなかったということができるでしょう。しかしこの後、本州においては稲作が広まりましたが、北海道においては泥炭地などによる貧弱な土地および稲には寒冷すぎる気候で狩猟採集経済が続いたことにより、本州では首長などを中心に稲作などを協力し合うような文化が発生し、中央集権の国家が出来上がった一方で、北方の居住者は先の理由により各部族ごとで分立した状態で、狩猟採集(一部ヒエやアワ、マメなどの農耕文化を含むか)を中心とした続縄文文化や擦文文化、オホーツク文化といった本州とは異なった、稲作を中心とはしない独自の文化が続いていきました。これに加えて周辺の各民族(特にロシア極東部)との交易も相まってそのような人々との混血が進んだ結果、アイヌ民族というものができたのではないかというのが私見です。したがってそもそも先住民族、というよりかはそもそも同じようなものだということができるでしょう。これらは未だ研究途上であることは否めません。これからの研究が待ち望まれます。

その後「アイヌ民族」がはっきりわかるようになる室町時代には、「道南十二館」(箱館や志苔館など)を中心にアイヌと和人の交易がありましたが、双方の口論をきっかけとするコシャマインの蜂起や、江戸時代には交易の不平等を主張するシャクシャインが蜂起するなど一部では反抗がありましたが、概ね平穏な交易が行われていたということができると思われます。アイヌ側は干物の鱶鰭(フカヒレ)やいりこ、アワビといった俵物(これを日本は清に輸出することで利益を得た)、和人商人側は漆器などを交換しました。これによりヒエやアワ、キビ、ソバなどのアイヌの農耕文化は一気に衰退したとされています。話は前後しますが、この背景には江戸時代の松前藩の設置設置があります。ここがアイヌとの交易を担いました。商場知行制からの場所請負制。交易権を知行主たる家臣に与え、知行主(=家臣)が直接関わるか、運上金を得て間接的に関わるかという違いがある。)また、江戸時代ではロシアが進出するに伴って幕府が松前奉行を置いて直接統治したり、あるいは根室に大黒屋光太夫を連れたラクスマンが来航したりと様々なことが起こりましたが、最終的に先ほどのように明治新政府によって北海道が設置され云々ということになります。

結局アイヌは異民族とよく言われるものであっても、実際は我々日本人と大して変わらないものから、差別というのは実に意味のないことであるというのが私の主張です。これは同じような歴史をたどっている沖縄などにもいうことはできると思います。

さて、話を戻しまして、ポロトコタンはアイヌ民族を知ろうとするためには非常に興味深く思わせてくれるものでしたので、ゴールデンカムイが流行しているような昨今ぜひ行くべきところでしたが、現在閉館中というですので、早い再開館が待ち望まれるところです。

 

長くなりました。この後は苫小牧港に向かい、太平洋フェリーで仙台に向かいます。

太平洋フェリーと言いますと「きそ」「 いしかり」「きたかみ」の三隻を所有し、苫小牧〜仙台〜(一部)名古屋で運行しているフェリー会社です。この旅行当時(2018年3月末)は旧きたかみ(現在の同名船は2019年1月に就航した最新鋭)がありましたので、同社の他船より値段が安く設定されていました。(現在は船室ランクの変更もあってだいたい同じくらい)それを狙って北海道に1泊したというのが実情ですが、その行程にしてよかったと今でも思います。

 

次は東北編です。仙台から山形に参ります。

今更旅行記-⑥北海道・東北-⑴青森編

さて、北海道・東北でございます。この辺りから高速バスよりフェリーを中心に考えるようになりました。

さて、まず行程を申し上げます。

①東京(上野)発〜②青森駅着〜三内丸山遺跡〜青森港〜函館〜③④札幌周辺(1泊)〜⑤仙台〜松島〜山寺〜山形〜⑥東京着

となっています。

⑴は②の青森・函館編です。

さて、上野〜青森駅といったら高速バス・パンダ号であることは言うまでもありません。日本屈指の長距離バス路線です。

上野発の夜行列車…ではなく夜行バスを降りたときから、青森駅は別に雪に覆われてはおりません。北へ帰る人の群れもなかったので、やや寒い青森駅から新青森駅まで行き、さっそく三内丸山遺跡に向かいます。f:id:unknownhuman12340:20190223202533j:image

三内丸山遺跡縄文時代の前期〜中期頃(約6000〜4500年くらい)の大規模集落です。f:id:unknownhuman12340:20190223202519j:image

掘立柱建物が点在しています。地面をやや掘り下げ、そこに柱を立てるという形式で、f:id:unknownhuman12340:20190223210930j:imagef:id:unknownhuman12340:20190223205420j:image暗いですがこのような感じです。中央には穴があり、ここに縄文土器を直接差すことで使用しました。つまり、加熱などの用途ではなく、単に保存容器として利用されていたのです。これに対して弥生土器は底が平らであり、これは竃などを使用して加熱調理などを行った、実際中には焦げた食物の痕跡が見つかるなどしています。

さて、三内丸山遺跡といえばf:id:unknownhuman12340:20190223205716j:imageこいつです。物見櫓なんだかそうではないんだかよくわからん建物、実際用途は櫓だという説はありますが、無論祭祀用という説もあります。そもそもこの建物自体、柱だけしか見つかっていないことから中・上層部の構造などわかるわけありませんので議論が絶えず、仕方なく「じゃあこうしておくか」的ノリでこのようになったというのはどうやら実話らしいです。f:id:unknownhuman12340:20190223210213j:imageところどころ柱のために掘り下げられた穴があり、そこに木の埋没部分が残っています。これらは栗の木で、狩猟・採集を主としていた縄文時代から多く採集・食されたものです。また、このように大木の栗の木は木材にも供されていたというわけです。先ほどの櫓的な建物も栗の一本木が使われていますが、日本にはそんなでかいのはすでに生息していないわけですから、シベリアかどこかから運んできたものだと言います。f:id:unknownhuman12340:20190223210612j:imageその他高床倉庫はすでに縄文時代から貯蔵庫として利用されています。写真に見えるように、角の出張った部分はねずみ返しなどというもので、ネズミが登ってくることができないように設けられているそうです。

近くの資料館も見てまいりました。縄文土器が様々展示されており、f:id:unknownhuman12340:20190223210806j:image特に「失敗した土器」などというのも展示されておりました。よくこんなものが残っているものだなぁと思うものです。

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三内丸山遺跡に関してはこのほかに面白いことに、東北新幹線新青森駅進入の直前に見ることができるということです。そのため、ここだけそれまで続いている支柱だかは除去されています。また、地図などを見るとよくわかりますが、同区間は遺跡を避けるかのように若干膨らんでから駅に進入する経路を取っています。

この後は青森港まで行き、フェリーで函館まで参ります。ここで青函間のフェリーについて申し上げますと、津軽海峡フェリー青函フェリーの二者が競合している状態ですが、前者は観光向け、後者は貨物輸送向けと一般的に言われており、値段も後者の方が若干やすいです。いずれも一長一短といったところですので、目的や値段に応じて選ぶと良いでしょうし、いずれも外れはないと思います。

 

さて、次は函館〜北海道編です。

f:id:unknownhuman12340:20190223211632j:image

今更旅行記-⑤奈良

さて、ふたたびの奈良でございます。奈良の魅力に取り憑かれ始めたのもこのころでしょうか。

今回の行程は、

①夜東京発〜②朝京都着〜奈良メイン〜京都〜大阪〜③東京着

というルートです

f:id:unknownhuman12340:20190221232120j:imagef:id:unknownhuman12340:20190222071656j:image

まずは春日大社でございます。もとは中臣氏(=藤原氏)の氏神を祀っていたところですが、中世以降は近くの大寺院・興福寺(こちらも藤原氏の氏寺で関係が深い)と結びつき、神仏習合の様子を見ました。興福寺の僧兵は神鏡がついた榊の枝を持ち出して強訴を行なったといいます。

次に平城宮跡に参りました。

f:id:unknownhuman12340:20190222181647j:imagef:id:unknownhuman12340:20190222181452j:imagef:id:unknownhuman12340:20190222181812j:image

平城宮とはその名の通り平城京の宮殿で、今では近鉄奈良線が横切っています。大和西大寺〜新大宮の間の広大な空き地のようなところは宮跡で、特に現在においては太極殿が復元されています。

さて、ここで平城京について申し上げましょう。平城京は、710年にこれも奈良県藤原京から遷都されたところです。この宮が置かれていた時代は概ね奈良時代と称されていますが、例えば聖武天皇恭仁京難波宮紫香楽宮など、政変の連続に伴って様々に遷都させていますが、やはり結局平城京に還都しました。ところで、平城京には興福寺薬師寺東大寺はじめ、さまざまな寺社があり、勢力を拡大しました。それが長岡京平安京の遷都につながった訳ですが、現在の京都の寺院を見てもわかる通り寺社勢力の完全な排除、というよりかは「既存の」寺社勢力の排除という方が正しいと思います。

そのようにして平城京は、いうなればうち捨てられた、ということです。確かに現在は外京(東大寺とか奈良公園のあたり)が中心地となってしまっていて、平城京の域内に田園風景が広がっていることはそれを裏付けるかのようです。ちなみにこれに比して京都では、街全体で寺社の保存を行い観光地化してきた、ということはまた有名です。

さて、次は薬師寺です。f:id:unknownhuman12340:20190223193654j:image

薬師寺といえば、フェノロサが「凍れる音楽」と評価した東塔や、本尊の薬師如来像が極めて有名です。東塔は現在修繕工事中ということで覆いが被せられ見ることはできませんが、後年復元された(、というのも一度焼失した)西塔は見ることができます。金堂も西塔も最近色を塗り直されたようで、とても鮮やかです。また、薬師如来像についてはまさに白鳳文化の中心的存在として有名です。特徴的なのはその座台で、他と違って特に蓮華などいったものではないわけですが、その彫刻には明らかにシルクロードを通ってきた西方の文化の影響を色濃く感じることができます。やはり当時の奈良というのはシルクロードの東の終点であった、ということができるでしょう。

春先に行ったので梅が綺麗でした。

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薬師寺から1本道のすぐそこ、次は唐招提寺です。

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唐招提寺は言わずと知れた、鑑真和上の造営した寺院ということで広く知られています。金堂には仏像が3体あり、その一体は極めて特徴的な千手観音です。普通千手観音の腕は、「一つの腕で25の世界を救う」とされているので42本程度くらいしかありませんが、唐招提寺のものは約1000本(正確には何本か欠けているのか、953本らしい)あり、25000の世界を救うことになるということになるかもしれませんが、やはりそれだけ徳がお高いと見えます。ちなみにこのように、腕が1000本あるものとしては葛井寺壽法寺のものがありますが、やはりごく少数です。このほかに鑑真和上の坐像(のレプリカ)などもありました。実際教科書通りのものでした。また、正式に僧と認めるための施設、戒壇跡もありました。f:id:unknownhuman12340:20190223194316j:image

さて、次は東大寺、特に正倉院です。中学歴史、高校日本史の教科書などでは必ずでてくる校倉造の最たるものです(ちなみに校倉造の建造物自体は様々なところに、例えば唐招提寺の倉庫などにも見ることはできる)f:id:unknownhuman12340:20190223180449j:image

中には聖武天皇の宝物などが収められていましたが、現在はこの写真の左側にある宝物殿に収められています。教科書で見ると、意外とそこらへんの倉庫のような大きさかと思われましょうが、実際のところは予想外に大きく、初見では圧倒されるくらい謎の威圧感を感じるほどです。f:id:unknownhuman12340:20190223194433j:image

少し正倉院から離れると大仏殿なども見ることができます。

ところでここに行った時は3月の頭であったことから、東大寺においては二月堂で「お水取り」をちょうどやっている時期だったのですが、私はそれを知らなかったのですっかりスルーしてしまったので、勿体無いと思う所存でございます。

この後は北野社の参拝のため(と肉まん)だけに京都に参りました。やはり梅が美しかったです。さすが菅公の詠んだだけあります。f:id:unknownhuman12340:20190223194633j:image

肉まんに関しては、大阪難波名物の551肉まんの京都駅内にある店舗です。f:id:unknownhuman12340:20190223194905j:image美味しいよね。

この後は大阪梅田に行き、バスで東京まで戻りました。

今更旅行記-④いい日旅立ち〜西へ〜-⑶京都・奈良

さて、最終日でございます。やや写真が多めなので文章が少なめです。

さて、広島から京都につきまして、まず参りましたのはf:id:unknownhuman12340:20190221170509j:image

有名な八坂神社前の交差点にあったローソンです。今は無くなってしまいましたが、「周りの景観に合わせて工夫した例」などで中学社会の教科書に載っていたような気がします。

まずは右京区太秦広隆寺でございます。f:id:unknownhuman12340:20190221204159j:image

目的はもちろん半跏思惟をしている弥勒菩薩さんです。よく言われるように尊いの極みでありました。広隆寺は京都に数ある寺院の中でもずば抜けた歴史があり、飛鳥時代からある寺院です。同時代の寺には四天王寺法隆寺などがありますが、ほかの寺院は奈良県にあるのに対して広隆寺は京都にあります。

つぎは六波羅蜜寺です。f:id:unknownhuman12340:20190221211117j:imagef:id:unknownhuman12340:20190221211138j:image

六波羅」はその昔平清盛の居館があった場所で、境内に「此付近…」の石柱(写真)がありました。鎌倉幕府中後期、承久の乱の後においては京都の監察として六波羅探題がおかれましたが、ただ、この清盛の居館跡と京都御所はあまり関係ないような気がしますが、実はそういうわけでもなく、京都御所にそこそこ場所が近く空いていた大規模な建物ということで、清盛の居館を改築してできたため、このような名前になっているのです。建物自体はこじんまりとしており、色なども最近塗られたようで綺麗です。六波羅蜜寺といえば「市の聖」こと空也上人像や平清盛像が有名で、隣同士で並んでいます。空也上人像の口から出ている枝みたいなもの、あれは「話す言葉の一つ一つが仏となって出てきた」という伝説に基づいた小仏像です。実物をよくみるとはっきりわかりました。その発想は実に個性的なものであります。その隣にあった平清盛像は、出家したのちの入道の姿の像です。目の感じが実にリアルで視線を感じるほどでした。場所が少々入り組んでいてわかりづらいところではありますが、周りは建仁寺などもあり、そこも回ってみるといいと思います。

次は北野社です。

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大宰府社も行った後にここに行ったからさぞやご利益はあることかと思っております。度々行っているのでここで行った時に何をしていたのか実はあまり覚えていませんが、このときは猫がいて戯れていた記憶があります。「東風吹かば匂ひおこせよ梅の花主人なしとて春な忘れそ」という歌は有名ですね。いつも気になりますが、「春な忘れそ」「春を忘るな」という二通りの書き方が見受けられまして、前者は「春を忘れるな」、後者は「春を忘れてはいけないよ」というような訳(つまり禁止か念押しか)になるわけです。文献的には「春を忘るな」の方が古くから載っているらしいですが、個人的には「春な忘れそ」の方が語感的に柔らかく、語りかけるようなイメージを感じるので、こちらの方が好きです。しかし行ったのが12月末の真冬だったので、梅など咲いているわけないのですがね。

ランチ

f:id:unknownhuman12340:20190221215613j:image一銭洋食でございます。広島焼きとはやはり違います。皮が薄く中身が厚いという点で、お好み焼きとはまた違った感じです。

この後は奈良に移動しまして、前々から法隆寺に行こうということで行ってまいりました。

f:id:unknownhuman12340:20190221211123j:image行ったところちょうど鐘が鳴り、「柿食へば鐘がなるなり法隆寺」という有名な正岡子規の俳句を思い出しましたが、残念ながら柿を食べていなかったのでどうしようもありません。

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日本、そして世界最古の木造建築でございます。とは言いますが、この近辺に若草伽藍跡がありまして、そこが創建当初の位置だとされています。それにしてもやはり最古の木材建築で、やはり歴史と荘厳さを感じます。広隆寺と同じく飛鳥時代の寺院で、厩戸王(聖徳太子)が深く関わっている寺院です。法隆寺飛鳥時代からの大寺院として、創建時から奈良時代など、様々な時代の文化が一堂に会しているところといっても過言ではないでしょう。

法隆寺の建築および釈迦三尊像百済観音像は飛鳥文化のもので、個人的な印象ですが仏像に関してはほっそりしている感じがします。ちなみに、同時期の玉虫厨子奈良国立博物館にあります。教科書などでみると小さそうに感じますが、隅に「210cm」とあるように実は結構大きいものです。一方で金堂壁画は少し後の白鳳文化のものです。これに関してよく言われるのは、西方文化の影響が見て取れるということです。金堂壁画や中国の莫高窟の壁画、インドのアジャンターの壁画はそれぞれ共通点が見て取れますが、これは日本が終着点になっていたシルクロードの影響であると考えることができます。

隣には夢殿があります。こちらは時代がもっと下って、奈良時代天平文化のものです。八角形の建物が特徴的でした。ちなみにさらにこの隣には、尼寺であったとされる中宮寺があります。中宮寺にも有名な菩薩半跏像がありますが、当時はすっかり失念しておりまして行っておりません。今度は斑鳩のあたりをゆっくり回ってみたいと思います。f:id:unknownhuman12340:20190221224503j:image

ちなみに東京国立博物館には「法隆寺館」なるものがあります。こちらは、明治時代に法隆寺から明治天皇に献上された小仏像などが展示されており、そのほとんどが金色をしているところにライトアップがなされているため、配置なども実に面白いことはさることながら、やはりほとんどの仏像が新羅百済などといった海外製であることが特徴的だと思います。日本の仏像とは全く雰囲気が異なるものです。

 

この後は大阪に行って帰還することになりますが、時間がかなり有り余っておりましたので道頓堀と心斎橋のあたりに行きました。f:id:unknownhuman12340:20190221224717j:imagef:id:unknownhuman12340:20190221224720j:imageびっくりしましたね、日本語が聞こえないの。さぞかし外国人に人気の場所だなと思いました。たこ焼きはタコが丸々1匹入っていたのが面白かったので写真に残しました。

 

さて、これにて旅行の全行程が終わりました。この旅行は実にためになるものだったと1年近く経った今でもよく思います。今度行くときはゆっくり見て回りたいところなどをさまざま発見できたという意義をもってこの旅行を締めました。