とあるツイ廃のブログ

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新元号に関する考察

去る4月1日、5月以降の元号である「令和」が発表された。そこで、様々な意見飛び交うこの元号に関して、私見を交えつつ考察してみたいと思う。

①「令和」の字に関して

令和というと、「命令の令」と言って説明するのが多い。やはりそこに違和感を感じるのは多いようであり、確かにそれはそうで、令の字はやはり人に何かをさせるという意味合いで用いられていることが多いのだ。しかし考えてみると、「令嬢」「令月」という用例(後者は特に出典における用例である)もある点で必ずしもすべてそうだとは言えず、つまり「良い」「素晴らしい」という意味合いを含むのである。中国語においてもどちらの意味合いも持つ。つまるところ「素晴らしい和」とかいう意味合いになるということであり、仮に命令しているととらえても、「和をもって貴しとなす」的意味合いを感じとることができるから良いと思うところである。第一、出典の意味合いは「素晴らしい」の意味合いなのだからそれに則って考えられるべきである。逆に考えてみたいことは、和を令されない(令されたくない)ということは和でない状態を望むということを暗に含むことと言えるように思われる。ところで、「巧言令色鮮し仁」(口達者とか脚色取り繕いあたりがうまいのは「仁」が少ないという意)に通じるからよくないなんてのも見るが、これは言いがかりに等しいものである。これに文句をつけるのであれば元号の最多出現を誇る「永」は「永眠」を想起させるし、また、そこそこ多い「享」なんかは「享年」を想起させるわけだから「令」のそれは実にばかばかしいイチャモンである。

②選考などに関して

元号は殆ど中国古典(春秋、論語詩経易経礼記などのいわゆる四書五経、あるいは漢書、隋書などの歴史書など)を出典とするものが多いが、令和に関しては日本の古書である万葉集から引用された。日本の古書に出典を求めるものは過去存在しなかった点である程度異例といえることは確かだが、しかしそれでもたとえば和銅武蔵国から銅が発掘されたことを祝う(和銅銅山、秩父市にある)もので、出典はないという点で実際出典は何でもよいものであることは明白である。(あくまで傾向があるというだけである)ここに関して、先のような中国古典から引用するのは伝統だから崩すわけにはいかないというのはやはり違うものである。一応補足すると、万葉集の当該箇所がそもそも引用であるという話で、いわば孫引き状態であるが、しかしそれでもやはり中国古典からの引用であるといえなくはないことは述べておく。これにもやたらイチャモンをつけるのがいるが、孫引きでも直接引用したのは万葉集である点でたいしたことはない。

さて、ここまでおおむね新元号に関して賛成の立場をとってきたわけだが、それでも一つ疑問があり、出典は「すげえいい春の日ですね」(超ガバガバ要約)というので果たして国の願いたる元号(過去の例なんか見ても出典の文を読めばその真意がわかるようなものである)に対しては果たしてどういうことなのかと考えてしまうところであるが、しかしそれでもやはりよく言われるように、令和年間が良い年になることを祈るばかりである。